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アントニオ・タブッキ 「イタリア広場」(白水社)

 ガリバルディによるイタリア統一から、ムッソリーニによるファッショの支配をへて現代イタリアにいたるまでの、「社会の記憶」が寓話に似たかたちで語られる。良くも悪くもカトリックのドグマに、一五○○年も支配された前近代イタリアだが、作者はその呪われた前近代イタリアを、老人が語る神話のように、明瞭な短文の連続でつづる。しかし、エピソードの時系列がわざと混乱させられているなど、いくつかの謎がかけられていて読者の斜め読みを許さない。
 ナチとファシスト党が、前近代イタリア社会の象徴である「村」を焼き払ってしまう。イタリア民衆の上に長年アホくさい訓戒をたれてきたカトリックの坊主は、頭をナタで割られたように打ちのめされる(p169)。この愚かな教区司祭の、半生を「前近代」に捧げたことに対する悔恨は激しく、彼の説教は突然ローマ教皇に対する直截な侮蔑の言葉に変わる。
 「教皇はまちがえることがない、というのは、もう公理ではありません。そう信じる人は、おつむが足りない、ということになります」。彼はこう村人に最後の説教をし、自分とイタリアの過去と未来を思いながら穴の中に隠遁する。
 もちろんその後に「近代」ローマ教会で何事かが起きるのでもない。ローマ教会の枠組みを変えようとすることなどは、ローマ社会自身が許すはずもない。ナチの犯罪を黙認したローマ教皇の責任を問うホッホフート『神の代理人』事件の決着の仕方を見るまでもない。近代ローマ人が自分たちの過去帳から西欧的な自由や独立をいくら持ち出そうとしても、その過去帳自体が一五○○年前のラテン語で書かれているのである。