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安部公房 「壁 S・カルマ氏の犯罪」(新潮文庫)

 主人公カルマ(宿業)氏は自分の名前をどこかに落としてしまい、もはや誰でもなくなってしまった。その代わりに(?)カルマ氏は胸の陰圧で世界のなにもかもを、目に見えたもののすべてを吸い取る「犯罪的暴力性」を持った人になってしまう。
 そのカルマ氏の罪状を問う裁判での、「論理力」だけの奇妙なやりとり。カルマ氏は世界の壁に立ち向かうたびに壁の厚さは増すのだが、ここには言うまでもなくカフカ『審判』の強い影響がある。動物園でラクダを見ていて、そのラクダを陰圧で吸い取ろうとしたとして突然逮捕され、裁判が始まるのだが、このあたりの童話のような幕開けは『審判』そのものである。世界を全部「見ようとすること」は罪業であり、「壁」は容赦なくその人を押しつぶすということなのだろう。
 第三部『赤い繭』に、「世界を獲得しなければ、ぼくたちは結局は架空の存在なんだ。無と同じなんだ」というとても素直な一文がある。また、最終章近くの、わずか七ページの掌編『事業』はなかなかグロテスクだった。事業家は、「哲学者」に、その「ユートピア」計画遂行の総指揮を依頼するのだが、その「ユートピア」計画事業とは、人口過剰に悩む世界のために人肉ソーセージ事業に乗り出そうとするものである・・・。

 p47-8
 (検察側の哲学者の論告) もし裁判がなかったら、被告というものもなくなる。被告というものがなくなったら犯罪も不可能になる。犯罪が不可能であるということは、何かものを盗りたいと思うものがあっても、盗り得ないということである。従って、ものを盗りたい者が自由に盗れるためにこそ、裁判が必要とされるわけだ。
(弁護側のY子) そんな馬鹿な理屈があるものですか。
(哲学者) 理屈が馬鹿なものであることは昔から決まっていることだ。いまさらそんな自明の理を述べ立てて時間を空費してはいかん。

 (p61) 被告の「ぼく」は『審判』のKのように身に覚えのない「ラクダ吸い取り」の罪で告発されるのだが、その「ぼく」はついきのうまでは、いま弁護側でアリバイを実証してくれているタイピストのYに、原稿を口述しながらスカートの上から太ももを撫でていた俗物である・・ということまで『審判』と同じ設定である。
 (p63) 「裁判は続行される!」「被告は逃げることはできない、壊れたドアから法廷はどこまでも延長されるのだ」「被告がこの世界の内にとどまるかぎり、法廷は被告のあとを追ってゆく」「われわれは一つの公理を設定する。すなわち、被告がある空間に存在すれば、同じ時間に法廷もその空間に存在するものとする」・・・ほとんど『審判』の換骨奪胎だ。
 『審判』では「状況証拠」的な文言の積み重ねで「壁」のレンガを積み重ねたものを、ここでは初等幾何の証明でもするような言葉で命題を直接的に指し示すだけの違いしかない。だが、名刺になった「もとぼく」やネクタイ、手帳、万年筆、靴までがニンゲンであった「ぼく」の一部をリアルに語るなど、安部の想像力は、いささか安手ではあるがシュールである。

 p92
 戦時中、反攻できぬ弱虫はただ発狂することをねがった。朝起きて、夜が明けたことを呪う飢えたものたちは、永久の夜に憧れ、死に瀕した人間はデーモンを信じ、生活力のない臆病者が悪魔の物語を創りだす・・・そんな馬鹿ってあるものか!そのじめじめした願望を現実にしてやつらにたたき返し、ウンと言わしてやるのがおれたち名刺やネクタイ、手帳、万年筆、靴の復讐なんだ。
 佐々木基一のすぐれた解説。
 安部公房には安らかに眠ることのできた世界への郷愁はまったくない。ということは、失うに足る世界をいまだかつて一度も持たなかったということである。したがってヨーロッパ人であるリルケカフカのような底なしの不安も、安部公房にはない。人々が名前を持っていようがいまいが、固有名詞が一般名詞や記号に振り替えられようが一向に差し支えのない世界を踏まえて、安部公房は出発しなければならなかったのだ。だから彼の主人公たちは、幼児のような素直さで、奇妙な自分の不安定な状態を受け入れ、謎をはらんだ不思議の国に目を凝らす。」