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バルガス・リョサ 緑の家(岩波文庫)

 修道中の白人尼がスペイン軍のボートに乗って、インディオの少女を荒縄でぐるぐる巻きにして誘拐する。怯えきった猿のように純真な少女を尼僧院に監禁して「野生動物にそっくりのあなたを暖かい家庭の一員として迎え、名前をつけ、神様のおられることも教えてあげたのです」とのたまう。
 これでもかというほどのスペイン尼僧の偽善。ゴム密輸商人に礼拝堂を建てさせ、見返りとして主人公群のひとりの少女ボニファシアを商人に渡し、商人は少女を売春宿に売り飛ばす。
 二○世紀になっても、国家としての法秩序よりは、現地役人の恣意とカトリックの最悪の独善がまかり通っているスペイン植民地。スペイン国王は王家の繁栄だけが気になっていたのであって、国民はそのことをよくわかっていた。スペイン文化の色彩はあざやかで自由だがその自由は「なんでもあり」である。こうした本国の場当たり植民地「経営」は、アングロサクソンの灰色の一貫した「法と秩序」を前にして、うまく行くはずがない。
 p211
 尼僧院長は軍のパーティで言う、「あの子たちをこの伝道所に引き取って、いろいろしつけたり教育をつけるのは、神の御心にかなうような人間になってもらいたい、、その一心からなのです。はっきり申して、あちこちのおうちに女中さんを斡旋するためにこんなことをしているのではありません。今回の弁護士さん宅に一人出すのは仕方ございませんけれど。・・・きっと気を悪くなさったでしょうね。でも尼僧院長として、どなたにでも時には耳の痛いことを申し上げなければならないことがありますの。」

 とにかく無茶苦茶な世界である。ゴムをアメリカに密輸する大立者ペルー白人、その弁護士、密輸商人の腰ぎんちゃく行政官、カトリック修道尼僧と司祭、捕えられたインディオ少女、少女相手のチンピラ、そのガキ友達、売春宿を砂漠に建てて大もうけするペルー人、大立者のペルー白人とインディオの両方からゴムを掠め取る日系盗賊、その旧友の老船頭と麻薬中毒の混血、目と舌を盗賊かハゲタカにくりぬかれたアントニア・・・
 同名の人物が出てくる。長いアネクドートが来ると、いつのときのことを書いているのかわからなくなる。突然過去の話になり、そこでは同じ女が別の男と夫婦だったりする。敵対する人物グループの会話が同じページで、わずかに繋がりながらまだら模様のように続く。作者には、わざと混乱させてペルーの曼荼羅のような世界をまるごと見せる意図があるが、それは読者の忍耐力を弄ぶかのようだ。日系盗賊の旧友の老船頭アキリーノと、盗賊子どもアキリーノが同じ名前なのは、明らかに読者を混乱させようとする作者のからかいだ。(下巻P38)(下巻P144で同名の意味はわかるが、一○○ページにわたって読者は悩まされる。)
 こんな書き方もあるのだ。普通は二○○ページも読めば訳がわからなくなって投げ出してしまう。バルガス・リョサは飲みながら書いたのか、ともかく読んでいてイヤにはならないのが力量なのだろう。
 スペイン語で書いたマンダラかもしれない。エピローグはあるがエンディングではない。作家は悪や正義や自由をではなく、太陽が木のてっぺんまでしか届かないアマゾン密林での時間の進み方を、世界のあり方として書いたのだ。