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朝吹真理子 「きことわ」(新潮社)

 密度の濃い言葉の連なり。接続詞ひとつをおろそかにしない短文の連なり。わずか百三十頁のみじかい作品なのに、話のつながりはよく分からない。そんなプロットなどは何ごとでもないように、ひとつひとつの言葉が緊密に編まれていく。発生直後の胚細胞が、上下左右前後の細胞とのコミュニケーションだけを手掛かりとして、なんの設計図もなく、何物の指示も受けずに、わずかなコピーミスもしながら、それぞれの組織や器官をかたちづくっていくように。
 貴子と永遠子という七歳違いの二人の女性の記憶の話。二人の記憶は同じ場所についてであっても、二人は姉妹のように成長したのであっても、おぼえがまるで異なっている。二人は記憶をおぎなおうとしても、結局、互いの記憶の地層は雪崩をおこして年代が失われ、わからなくなってしまう、そんな記憶。(p83)

 p43-4
 (子供時代を一緒に過ごした家を、今日取り壊して更地にするという日に訪れたのだが、)柱が柱としていつまでも屋根と床とを支えつづけているのが、貴子には不思議でならなかった。敷石をひとつふたつと踏みしめてゆく。ありうべき番地に家が存在することにたじろぐ。人も家も、時と世のうつりゆくのにしたがい、かたちを変えるものなのだから、放置していた庭は鬱林と化し、甍は崩壊し、室内には蔓がよろめきまわるような・・・、そんな幽霊屋敷の期待はあっけなく裏切られた。
 しかし、二十五年前にそこに短い夏を永遠子とすごした、凝っていた記憶が、人が住まなくなって久しい部屋のあちこちに視線を投げるごとに、なにかしら浮んでは消えた。追想というのが甘美さから逃れたい性質を持つものであるとしても、さして甘やかには感じられなかった。記憶の人の姿が立ちのぼり、横切る。あるいは通り抜けてゆく。ひとまずあらわれて、退く。なにも幽霊が出たというのでも、いきすだまがとびまわるというのでもなかった。それらを見る目を持つ貴子自身の記憶がゆすりうごかされているのに違いはないのだった。
 いまも、二十五年前のそのときどきの季節の推移にそったように、照り、曇り、あるいは雨や雪が垂直に落下して音が撥ねる。時間の向こうから過去というものが、流れるようによぎる。ふたたびその記憶を呼び起こそうとしても、つねになにかが変わっていた。いつのことかと、記憶の周囲を見ようとするが、外は存在しないとでもいうように周縁はすべて絶たれている。かたちがうすうすと消えてゆくというよりは、不断にはじまり不断に途切れる、それがかさなり続いていた。映画の回想シーンのような溶明溶暗はないのだった。
 p61
 まもなくリサイクル業者が運び去ることになる食器棚の前を通ると、はめ込みのガラスに永遠子は人のすがたを認めた。ガラスで屈折した自分のすがたに違いないのだが、小さなころも、この食器棚の前を通ると、いま自分が見ているような、年をとった大人の姿が映りこんでいるように思った。それは、いまこの瞬間の実像を、四十歳の永遠子を過去の自分は眺めていたのかもしれなかった。
 p72-3
 貴子の母のレコードが残されていた。母の心音は乱れやすかった。心音が止まれば死ぬ。一音一音がつつがなく打たれるのかをつねに不安に思うからか、止まる音が聞えないように母は音楽を聴いていたのかもしれなかった。
 母が「私が死んでもまた朝が来る」ととつぜん言ったときの声の名残りが立つ。母が急逝した翌日、たしかに死者にも朝が来ると貴子は思った。
 p108
 夕方、貴子と永遠子は引越しの準備をすべて終えた。永遠子はベランダに出て、貴子はきちんと帰宅しただろうかと考えた。それぞれの心音とそれぞれの夢だけをかかえて夜は過ぎ、朝になる。明日はまた貴子に会う。葉山の家はなくなる。会わずにいてもまた会えばよいだけで、会わないでいた二十五年間も、会うためのひとつの準備であったのかもしれなかった。
 p115
 貴子の母は、降りしきる雨音と点滴の落ちる速度との不一致が気持ち悪いと言いながらこときれた。一晩持ちこたえた日の夕刻のことだった。貴子もまた、母親を失った悲しみと、安堵と、葬儀の日に吹いていた春風を駘蕩と感じるのどかなここちよさと、そうしたすべてがいっせいに胸に迫り、何もかもが不一致に思われていた。身体が内側から裂けてゆくような、ばらばらの感情がわいてくるのをおさえようがなかった。

 福岡伸一『せいめいのはなし』で朝吹真理子が話していたこと。これを読んで『きことわ』に使われた言葉の、幼い生命のようなゆるく結ばれた澱みが理解できた。
 「わたしは小さい頃からこの世の理(ことわり)を知りたいという気持ちが強かったんです。人間社会の成り立ちというより、長い長い歴史の中で、今、人は一瞬だけ生きて明滅して消えて次に行くとして、自分がどういうところに立っているのか知りたいんです。何かがどうして美しかったり寂しかったり、同じ雲や雨を見ても日々感情が変動するのかも、科学と全然関係ない抒情的な気持ちで知りたい」
 福岡氏が朝吹真理子を巻末で評して。「あれで二十代というから驚きます。四十代のころにはどうなっているのだろうと想像すると、恐るべき才能です。まだまだこれから吸収していかれるでしょうし、もうちょっと壊れるところが出てきたり、そこから生まれることがあったり、これから大いに変わっていかれるでしょうね。」