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田中慎也 「共喰い」(集英社)

 性交渉のとき女を殴ることで自分を興奮に導く父親。その子供である語り手が、高校生になって同じような人間になっていく、という物語である。小さい時からそんな「強烈な」父親を見て育ったのだから、同じような人間になっていくというのは十分わかる話だが、そのようなプロットだけで人が羨む文学賞がとれるほど、日本の小説界は貧しいのだろうか?
 田中慎也は、性交渉にかかわりのない情景描写をするとき、一風変わった作法の文章を作る人である。統辞法としてはもちろん間違いではないのだが、作家の言いたいことを一瞬わかりにくくするために、視野の中心をやぶにらみの視線で凝視するような印象がある。例えば次のような二、三例。

 p34
 (殴られながら主人公を妊娠し、いまは近くに暮らしている実の母親である)仁子さんは、椅子にかけ、戻ってこない筈の時間がもし間違って店の前を通りかかったら絶対に逃しそうにない目で外を見つめ、煙草を吸っていた。
 p37
 死んだように動いていない商売女のアパートの壁に、クマゼミが一匹張りついている。鳴いてはいない。自分が眠っているすぐ傍らに蝉がいたのだと、女がこの先、知ることはない。オレもわざわざ教えてやろうとは思わない。まるでセミが止まっていないのと同じようなものだ。すると女とセミを同時に見ていること自体も、嘘だという気がしてくる。
 p41
 川辺の住人たちは、下水道工事の個人負担金が安く済みそうだとわかっても、捕まえようのない太った時間を必死で押さえつけ、引き裂き、ごまかして仕事をサボり、熱と光に焙られている点だけは川辺と一緒の甲子園の高校生たちをテレビで見物し、家からなかなか出ようとしなかった。
 同じ芥川賞を取りながら、朝吹真理子は次のように書いた。「人間社会の成り立ちというより、長い長い歴史の中で、人は一瞬だけ生きて明滅して消えて次に行くとして、今、自分がどういうところに立っているのか知りたい。何かがどうして美しかったり寂しかったり、同じ雲や雨を見ても日々感情がどうして変動するのかも、科学と全然関係ない抒情的な気持ちで知りたい。」
 これに対して田中慎也は、自分のなかをすぎゆく澱みを、美しい目を持って捉えはしない。生き腐れたような身辺の全体を、まるで運命の悪を裁くことができるように、日の下にさらけ出そうとする。
 世がいつも末法であるのなら、わたしは朝吹真理子の側に立つ。