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夏目漱石 「文鳥・夢十夜」(新潮文庫)

 思い出すことなど
文鳥』には、いわゆる修善寺大患ののち、東京の胃腸病院で一応の回復をみてから、修善寺体験の意味が執拗に分析されている。

 p216−7
 われわれの意識には敷居のような境界線があって、その線の下は暗く、その線の上は明らかであるとは現代の心理学者の一般に認識のように見えるし、またわが経験に照らしても至極と思われるが、肉体とともに活動する心的現象に斯様の作用があったにしたところで、わが暗中の意識すなわちこれ死後の意識とは受け取れない。
 よし物理学者の分子に対するごとき明瞭な知識が、吾人の内面生活を照らす機会が来たにしたところで、余の真理はついに余の真理である。自分に経験のできないかぎり、どんな綿密な学説でも吾を支配する能力は持ちえまい。
 余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの予想通りに経験した。はたして時間と空間を超越した。しかしその超越したことがなにの能力も意味しなかった。余は余の意識を失った。余の個性を失った。ただ失ったことだけが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな、スピリチズムの説く意識と冥合できよう。
 p222
 力士が四つに組んで土俵の真ん中に立つ姿は、相剋する血と肉の、わずかに平均を得た象徴である。これを互殺の和という。
 自活のはかりごとに追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。吾らは平和なる家庭の主人として、少なくとも衣食の満足を妻子に与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、自己と世間とのあいだに互殺の和を見いだそうとつとめる。 
 戸外に出でて笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いに中に殺伐の気に満ちた吾を見出すならば、さらにこの笑いにともなう恐ろしき腹の波と背中の汗を想像し、命のあらん限り一生続かねばならないという苦しい事実に思い至るならば、吾らは神経衰弱に陥るべきほどわが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる。
 p224
 八月二五日、血を吐いた翌日に、思いがけない知己や朋友が代わる代わる枕元に来た。あるものは鹿児島から来た。あるものは山形から来た。またあるものは目の前に迫る結婚式を延期して来た。彼らは皆、新聞で世の病気を知ってきたといった。仰向けに寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住みにくいとのみ観じていた世界にたちまち暖かな風が吹いた。
 四十を越した男、自然に淘汰されんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙しい世がこれほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待ち設けなかった余は、病に生き返るとともに、心に生き返った。余は病に感謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切を惜しまざる人々に感謝した。そうして願わくは。善良な人間になりたいと思った。この幸福な考えを吾に打ち壊すものを、永久の敵とすべく心に誓った。
 漱石は基本的に怒りの人である。日常家族生活の上ではなく、“800㏄も吐血したあと30分は死んでいた”ほど苦しむ自分の胃の上に、その怒りを顕わにした人だ。
 留学中は「英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営み(文学論p24)」、世界を睥睨するかのごとき彼らの自信と体臭に辟易し、下等文明国の劣等感をいやというほど味わった。下宿の女主人にいたるまで、英国人は吾を蔑んでいるかのような被害妄想に陥り、帰朝後は「かくのごとく君らの御世話になりたる余は、ついにふたたび君らの御世話をこうむるの期なかるべし」と遠吠えた。
 この怒りは、西欧に必死に追いすがろうとする当時の日本の上滑り風潮に対しても直截な言葉で向けられ、近代文明のなかで個人の怒りを表さない高等遊民を小説のなかで何人も生み出した。漱石自身が、井の中を窮屈とも思わぬ近世日本の呑気さと、あけすけな略奪文明=西洋資本主義の間で悶える高等遊民であったことはいうまでもない。そしてそのことが漱石の胃に少しずつ穴を穿っていった。
 漱石が、病院を訪れた幾多の人に心から感謝したことは事実である。自分で言うようにもっと「善良な人間になりたいと思った」のも真情である。しかし、漱石は続けてすぐ「この幸福な考えを吾に打ち壊すもの、世間の金や権威や有象無象の偽善のために手間と時間と親切を惜しむものを、永久の敵とすべく心に誓った」人なのであり、こころおだやかな大家となることはついになかった。「自己と世間とのあいだに互殺の和を見い出す」ことほど漱石に難しいことはなかった。
 修善寺体験のあと、漱石は「則天去私」の境地を得たといわれるが、そんなものは、歪んだ鏡に見つけようとした「あるべき自画像」であり、また、漱石に「大家」の額縁を付けたかった弟子たちの事大主義と思い過ごしに過ぎない。その証拠に、数年後に遺作『明暗』を書くのだが、「則天去私」の大家がこんなものを書いて、宿痾の胃潰瘍をさらに悪化させるわけがない。
 それにしても、漱石はたったの四九歳で死んだのだった。私はもう十五年も長生きしてしまっている。