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安部公房 「箱男」(新潮文庫)

 いささかお手上げの小説だ。全部がメタファーというのはわかる。この世が生きるに値しない、主人公が世界と親しむ接点も本来はない、ということもその通りである。一枚の段ボールがその断絶の象徴として描かれている。段ボール箱以外に「この世」らしいものが何も登場してこないカフカのような世界だが、カフカのように読む人の胃を傷つけることのない、段ボールで作った世界のような話である。
 阿部公房の写真はほとんどプロカメラマンのレベルだったという。阿部がよく撮影したのは、自分に必要なものだけを切り取れる日常の世界ではなく、(落ちている百円玉も錆びた折れ釘も)あらゆる細部が同質になっているゴミ捨て場の風景だったらしい。
 台詞に日常の意味を求めても甲斐のない狂い切った登場人物たち。箱をかぶって病院にいったり、空気銃で撃たれたりするが、彼らは人間ではない。彼らをおおう段ボール箱はほとんど彼らそのものである。下向き視線の目と、釘で穴を開けた耳と、用足しの小道具しか彼らは持っていない。雑踏の中で踏まれて殺されても、死亡者の統計の中にさえ入れてもらえないゴミである。

 p103-6
 「ぼくは七種類の新聞をとり、部屋には二台のテレビと三台のラジオを備え、外出のときも小型ラジオを手放さず、寝るときもイヤホンをつけっぱなし。ひどいニュース中毒にかかっていたわけだ。・・・なぜこう誰もがニュースを求めるのか、世間の変化をあらかじめ予知していて、いざというときのために備えるんだって?以前はぼくもそう思っていた。
 でも大嘘さ。人はただ安心するためにニュースを聞いているだけなんだ。どんな大ニュースを聞かされたところで、聞いている本人はまだちゃんと生きているわけだからな。
 本当の大ニュースは、世界の終わりを告げる、最後のニュースだろう。考えてみれば、ぼくが中毒にかかったのも、結局のところその最後の放送を聞き逃すまいとする焦りだったような気がする。しかし、ニュースが続いているかぎり、絶対に最後にはならないんだ。まだ最後ではありませんというお知らせなのさ。」
 このパラグラフ自体、悩める大学一年生程度の厭世観である。だがしかし、終章に近づいても、数あるメタファーの意味はすこしもはっきりしてこない。ショパンがなぜショパンなのか、赤い本皮製の箱に入った父とは何ものなのか、切手の贋造者とは何なのか、分からないことだらけである。こちらは安部公房の「実験的小説」と思って、あれこれ顔を青くしながら考えるが、わたしの脳力ではほとんど荒唐無稽の世界である。
 ニュース中毒の世間の中での、見るものと見られるものの位置のあり方、ホンモノとニセモノの役割の交換がグロテスクに描かれていることはよく分かる。しかしこの記述によって世界の構造の網目は整理されても、そして薄汚いままポンと投げ出されても、読む者の立ち位置が快か不快か、それさえ明解になるわけではない。わたしが鈍感なだけなのだろうか。