アクセス数:アクセスカウンター

内田 樹 「私家版・ユダヤ文化論」(文春新書)1

 ユダヤ人とは誰のことか? 
 p26
 イエスはガリラヤのユダヤ教共同体の内部に育ち、アラム語で布教活動を行った。ガリラヤはユダヤ教にとっては辺縁にあたる地であり、のちに彼は、彼の成功に嫉妬した同業のラビに讒言され、刑死した。福音書はイエスがそのときユダヤ人を激しく呪ったことを伝えている。このイエスが発したとされる「ユダヤ族に対する呪い」は、その後二千年にわたって「人種差別」の論拠を提供してきた。
 しかし人間の世界では、大抵の場合、人間が制度的に構築した差異が本来の生物学的な差異を意味づけるであって、その逆ではない。ユダヤ人を他の民族集団と差異化できる有意な生物学特徴は存在しない。
 p23
 ユダヤ人というのは中立的な名称ではない。だから当然、一義的な定義が存在しない。「ユダヤ人は・・・・・」という文章を書いてしまった人は、その人の主観的な「ユダヤ人論」を語っているのである。(p36)つまり、私たちはユダヤ人について語るとき、必ずそれと知らずに自分自身を語ってしまうのだ。
 p30
 ヨーロッパのキリスト教君主たちがどれほど強制改宗を試みても、ユダヤ教徒を改宗させることは困難だった。たとえば一四九二年、スペインではユダヤ教徒追放令が発布されたが、これはナチスドイツのニュルンベルク法ホロコーストを除けば、歴史上最も大規模な迫害のひとつである。この追放令は、三ヶ月以内にキリスト教に改宗しないユダヤ教徒はスペイン領内にとどまってはならず、違反者は死刑にすると定めていた。 
 ユダヤ教徒の官僚や豪商たちはこの圧力に屈して、改宗してスペイン領内にとどまり、既得権を維持するだろうと予測されていた。しかし実際には、彼らのほとんどは地位と全財産を捨てて異郷に旅立ったのである。
 p34
 ヨーロッパ(主にフランス)の啓蒙家たちは、ユダヤ人を統合している「なにものか」があり、それは近代市民社会の統治原則とは相容れないことを、正しくも理解していた。しかしそれが「何であるか」は全く理解できず、その理解不能=恐怖心が、現代まで続くキリスト教徒啓蒙家たちに固有の原理主義的暴力性につながって行った。「民族としてのユダヤ人は拒絶しなければならない。彼らは国家内の政治的独立集団を形成してはならない」というわけである。
 p47
 サルトルの言うとおり、「ユダヤ人」概念のいくぶんかは反ユダヤ主義者の創造した幻想である。しかし現に、私たちは「国家」が幻想であり、「貨幣」が幻想であり、「性差」が幻想であることも知っている。にもかかわらず、依然として国家は存在し、貨幣は流通し、性差は欲望を喚起することをやめない。こういう論件については「・・・・・は幻想である」というだけでは話は終わらないのだ。
 p50
 ユダヤ人」概念は「ジェンダー」概念に似ている。サルトル風あるいはボーヴォワール風に言えば、女性とは「女性」と呼ばれる人間のことであって、それ以外の何ものでもない。そして、「女性」というカテゴリーを構築したのは、それによって利益を独占しようとする「男性」なのである・・・・・という命題は 「政治的に正しいポリティカリー・コレクト)命題」として登録されてしまっている。
 しかし、この命題はほんとうなのだろうか。父権制的な社会慣行が「男性」「女性」というジェンダーを生み出したのは事実だとしても、「社会の起源において父権制的な社会慣行を作り出したのは性的に誰なのか?」という問いには誰も答えてくれていないのだから。
 p55
 「男」と「女」が、実際そこにはないものの代理現象だとしたら、「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」の対立も現実的な世界から導かれた対立ではないのではないか。代理現象としての「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」の対立があったほうが、現実のヨーロッパ世界に骨組みと軸と構造を与え、ヨーロッパ人に世界のリアリティを感じさせるのに都合がいい、ということではないのか。