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内田 樹 「私家版・ユダヤ文化論」(文春新書)2

 十九世紀的思考法
 p85-6
 十九世紀の人は、あらゆる事象は因果の糸で緊密に結びついており、その糸を発見することこそが「科学的思考」だと深く思い込んでいた。だから「近代科学主義者」たちは例外なく政治過程を機械のメタファーで考えた。ある政治的「結果」yは別の政治的「原因」xの関数であり、y=f(x)で表わされると考えたのだ。
 「生命現象とは有機高分子群の流れのなかにある『淀んだ部分』にすぎない」ことを七、八十年前に見抜いた分子生物学者ルドルフ・シェーンハイマーは、こうした思考の型に「ペニー・ガム法」なる皮肉な名前をつけた。自販機にペニー銅貨を「入力する」とかならずガムが「出力する」ような単純思考法という意味である。歴史的な変動をある「見えざる工作者」の企みに帰すこの発想は陰謀史観と呼ばれるが、十九世紀の政治思想家でこの弊を免れている人はほとんどいない。
 社会がうまく機能していないのは、多数の不幸から受益する少数の「悪者」がいるせいであるから、これを滅ぼせば社会はよくなる・・・・、あの怜悧なマルクスでさえこうした十九世紀的な「物語」を繰り返している。マルクスは、社会の不幸のすべての原因である「少数の非行者」=「資本階層という特殊な社会圏」が存在することを、論証するに先んじてほとんど渇望していたのである(『ヘーゲル法哲学批判序論』)。
 p100
 私たちも、「ある結果には単一の原因がある」と考えやすい。私たちは、破滅的な事件が起きるとどこかにその「悪の張本人」がいて、すべてをコントロールしていると考える傾向を持っている。これは人間の類的宿命ともいうべき生得的な傾向である。私たちの過半は、事象はランダムに生起するのではなく、事象の背後にはある種の超越的な(常人には見ることのできない)地下水脈があると信じたがっている。
 信仰を持つ人たちには特にそう考えがちである。神への信仰だけではない。安全も安心も平和も健康も長寿も(特に日本の場合)信仰の対称になりうる。
 これらを信じることのできる人間だけが「純粋な悪」の存在を信じることができる。
十九世紀当時のヨーロッパでは神への信仰がまだ圧倒的であったから、ヨーロッパ社会の過半にとって、社会の不幸のすべては<少数の非行者=ユダヤ人>の世界制覇の陰謀が原因であるという陰謀史観論は、とても陥りやすい罠になった。
 これは「ある出来事の受益者がその出来事の企画者である」という「ペニー・ガム法」的推論の典型である。本邦には「風が吹けば桶屋が儲かる」という俚諺がある。<風が吹くと埃が立つ→埃が立つと目に入る→目に入るとめくらが増える→めくらが増えると三味線が要る→三味線が要ると猫が減る→猫が減るとネズミが増える→ネズミが増えると桶をかじる→桶がかじられると桶屋が儲かる>というものだが、桶屋は風の受益者ではあっても、風の企画者ではない。大きな風が来ると、多くの人が不幸に遭う。地震もそうだし、インフルエンザも安全、安心、平和、健康、長寿を損なうものである。しかしこれらの不幸の背後に、(未必の故意にしろ)不心得者がいるとは限らない。