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内田 樹 「私家版・ユダヤ文化論」(文春新書)3

 反ユダヤ主義
 p104-5
 生来邪悪な人間や過度に利己的な人間だけが反ユダヤ主義者になるというのなら、私たちは気楽である。そんな人間なら簡単にスクリーニングできる。しかし最悪の反ユダヤ主義者はしばしばそうではなかった。むしろ信仰に篤く、博識で、不義を憎み、机上の空論を嫌い、戦いの現場にいち早く赴くタイプの人々であった。
 p107
 近代反ユダヤ主義の古典となった一九世紀末の大ベストセラー『ユダヤ的フランス』を書いたドリュモンは「桶屋は風の受益者ではあっても、風の企画者ではない」とは考えず、次のようにヨーロッパの現状とその原因を断定した。
 「フランス革命の唯一の受益者はユダヤ人である。すべてはユダヤ人を起源としている。だからある醜悪な小集団による多数の隷属化は、すべてユダヤ人に帰着するのである。その手口は多種多様であるが、めざすところは一つ、征服である。征服とは、一国民全体がある異邦人のために労働し、巨怪なる搾取システムによって人々の労働の成果が収奪される、ということである」
 p121
 (古代から、ヨーロッパに徐々に流れ込んだ)ユダヤ人にはもともと農地が与えられていなかった以上、彼らは金融、流通、興行、メディアといったニッチに雪崩れ込むより仕方がなかったのだが、近代主義を憎むドリュモンと大多数の中層民はそうは考えなかった。いわく「第三共和制はユダヤ化されたブルジョワ政体であり、すべては証券取引所から出て証券取引所に帰す。すべての行為は投機に帰す」。
 このドリュモンの近代主義批判は二百年後の日本のマスメディアの近代批判論調にも、ほとんど同じといっていいくらい復元されている。二○一二年七月一日の朝日新聞には、「幸せの国ブータンが税と物欲に苦しみ始めた。人々が買い物の魅力に目覚めた。マンション開発が進みマイカー需要も・・・・」という記事が日曜版の一面・二面を覆っていた。 緑したたる大地、結ばれる強い絆、「国民総幸福」のために全員が慈しみあう共同体・・・・、といった時代錯誤記事は多くの読者の琴線に触れただろうし、その何分の一かの読者に嘔吐感を覚えさせただろう。
 「国民総幸福」という指標は何百年も文化的鎖国を続けられた地域のみに許される経済指標である。侵略しても得るものは水ぐらいであるという地政学上の皮肉によって鎖国は続くことができた。日本の江戸時代、元禄、文化、文政の「爛熟」は、中世以来の欧州諸国のパワーポリティクスとサイエンスの展開に目をつぶったこその、井戸の中の太平楽だった。インターネットの今日、ブータンの国民がニューヨーク・東京・上海の映像を見ながら自国の文化的鎖国に甘んじ続けることはありえない。
 ブータン国王夫妻が日本を訪問したときのTV、新聞の論調には、もうそこまで来ている国民総幸福指数の欺瞞を指摘する記事はなにもなかった。

 p168
 ある種の人々は、あらゆる現実は歴史学的・物理学的な因果関係で生起すると信じている。その人々は、自分たちの幻想や憎悪や恐怖が、歴史的現実とかかわりなく生まれていることを認めたがらない。しかし日本だけを見ても、「現実には存在しない社会集団に対する幻想や憎悪や恐怖」が現実の政治力学に活発に作用していることは明らかである。幸徳秋水事件の連座冤罪人たちのように。
 「過剰な」ユダヤ
 p175
 ノーベル賞自然科学部門のユダヤ人は二○○五年までに、医学生理学賞で四八人(二六%)、物理学賞で四四人(二五%)、化学賞で二六人(一八%)と突出している。ユダヤ人は世界人口の○.二%に過ぎないのだから、これはどう考えても異常な数値である。世界のユダヤ人は、それぞれ帰属する社会の教育制度に組み込まれているのだから、べつに「特殊な民族教育」を受けているわけではない。にもかかわらず、この異常な数字が存在するということは、民族的な仕方で継承されてきたある種の「思考の型」があることを仮定せざるをえない。
 p177
 その仮定とは「ユダヤ人をイノベーティブたらしめている知的伝統が存在する」というものである。ユダヤ人たちが民族的な規模でイノベーティブであるのは「自分が用いている判断枠組そのものを疑う力であり、私は私でしかないという西欧哲学の“自己へのこだわり”を不快と思う感受性」であると私は思っている。
 p180-2
 彼らは(エジプトに囚われる、バビロンで生皮をはがれる、ヒトラースターリンホロコーストに遭う、など)あるきっかけで、「自分が判断するときに依拠してい思考の枠組そのものを疑うこと」、「考えている自分自身だけは疑わない、という自同律を信じないこと」を、彼らにとっての「標準的な知的習慣」に登録した。
 このような社会集団は、たとえば密教系の集団などのように、教義の高俗と規模の大小を問わなければ、無数に存在する。だからある種の知的拷問に耐える能力を成員条件に採択した大きな社会集団があっても、なんら怪しいことではない。私たちにはそれが民族誌的奇習と映るだけである。ユダヤ人に何らかの知的卓越性があるとすれば、それはこの私たちのとっての「ふつうでなさ」を、おのれの聖史的宿命として受け入れたことに求めるべきであろう。
 ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいてごく標準的な思考傾向を私たちは因習的に「知性的」と呼んでいるのである。このような集団は、ある種の問題に対してはその問題自体が設定妥当であるのかを問う。たとえば戦争とかジェノサイドの原因とかは、きちんとした限定をつけなければ、回答などはありえない問題である。近世から近代のヨーロッパの平均民衆にとって、ユダヤ人は間違いなく自分たちの汗の産物を金利によって掠め取ったのであり、ユダヤ人は「めざわり」以外の何ものでもなかった。ジェノサイドはその民衆の自己防衛として発動したのでもあったのだ。