アクセス数:アクセスカウンター

司馬遼太郎 「微光の中の宇宙(私の美術観)」(中公文庫)1

 p21
 戦前から戦後にかけて、大阪などの油絵の塾は、学校とか塾とかは称せず「洋画研究所」という看板をあげるのがふつうだった。最初そういう看板を見たとき、なにか誇大表示に似た感じを受けた。絵具会社での化学としての研究所ならともかく、油絵の画塾がなにを研究しようとしていたのか。 
 そういう表示が行われるほどに、わが国の近代絵画は「理論」で武装されてきた。印象派にしても、いまでいえば小学生が習う程度の光の色彩現象からヒントを得て色面を構成するのだが、美学的に理論化されると、じつにこむずかしいものになった。私は若い美術記者だったが、個展に行くと、たいていの古い記者は作品を見ながら、画家をつかまえて「色彩のヴァルール(色価)はどうなっております?」と質問していた。
 p28
 抽象画を描くためには新しい形象をさがさねばならず、しかもそれを自分の内部に求めるのではなく、外部に求める画家が多かった。新しい形象を作り出すことができない人たちは、医大の研究室から電子顕微鏡による動植物の細胞写真をもらって来て、ほとんどそのまま模写し、構図化していたりした。ただ形が面白いというだけで、芸術の唯一の力である精神などは存在しなかった。抽象画論の遠祖ともいうべきセザンヌの形象論も、日本で独り歩きのあげく形骸化しはて、意味すら失ったという感じだった。
 他人の理論や他の社会が生んだ理論の追随者になるというのは、その人の芸術だけでなく、人生をも無意味にしてしまうのではないかと、若い私は激しく思った。
 
 密教美術

 p44
 私たちは、日本でふつうに接しうる仏教をもって、釈迦の仏教であると思いがちである。釈迦はその後の――たとえば二○世紀の日本の――ある種の僧侶たちによって売られてしまったようである。釈迦はたとえば祈祷や偶像崇拝などの現世利益からおよそ遠いところにいた。まして寺や僧が、死者に祟りがあると称し、それを恫喝の具にして護符を売りつけようとするなどは、仏教に関わる思想ではない。ある種の僧侶たちが私たちの未開時代から引きずってきた土俗信仰を買ったのであって、釈迦の思想にはそういうものは片鱗もない。
 釈迦の思想はたかだかとしていた。釈迦は死後の世界すら説かなかった。戒を守り、行をし、やがて仏教の究極の目標である解脱までは釈迦は説く。しかし解脱した行者が死後どこへ行くかについてはいっさい無関心であり、筝の弦を断ち切ったように、一声も言わなかった。
 p51−2
 密教の成立は新しい。釈迦入滅後、千年以上も後のこと、場所は西南インドの海岸地方である。そのころ、この地で主にダイヤモンドを扱うインド人貿易商の富は莫大なものであった。貿易商人の千年以上も前に、この亜大陸から釈迦が出て、生きていること――肉体を具えていること――の苦痛を説いたとき、つねづね飢えと暑さと病いに苦しんでいた人々はその通りだと思い、解脱の法を説く釈迦の教えに従った。 
 しかし時代は変わり、西南インドの海岸に蓄積された富の中に住む人たちにとって、現世は悪いものではなくなった。釈迦はすべてを捨てよといわれた。が、われわれはすでに持ってしまっていた。もしこれらを持ったま――即身のまま――成仏できるとすればどんなにいいだろう。この素朴な願いが即身成仏を修行の核とする密教を誕生させたと思える。
 密教仏はさまざまあるが、とくに菩薩像が華麗に装飾されている。菩薩は、人格の完成度が高すぎる仏陀の下の段階にとどまったまま、宝冠、イヤリング、ネックレス、ブレスレットなどで現世を肯定し、ひたすらに慈悲を行う存在である。