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司馬遼太郎 「微光の中の宇宙(私の美術観)」(中公文庫)2

 空海
 p75
 われわれは、京都の教王護国寺(東寺)の仏たちを、ただの彫刻と見てさえ、その造形の異様さに、人間の空想力というものはこれほどまで及ぶのかと呆然とする。しかもそれが単に放恣な空想力だけでつくられたものでなく、その内面に緻密な思想があり、さらにその仏たちの思想群が一つの原理へ帰納され、帰納されたものが同時に原理へ発揚している。この帰納と発揚が旋回しつつ、いわゆるマンダラの世界を大構成していることを思えば、思想家としての空海は、天才とか何とかというより、空海その人が宇宙そのものであったということを思わざるをえない。
 p84
 空海の奇妙さは、大学という官吏養成所で正統の学問をした青年でありながら、南都の学問僧に憧れるところが少しもなかったことである。かれは儒学にせよ南都仏教にせよ論理的手段で行き着く世界よりも、僧としては非正統の土着のシャーマンの世界に没入することをはげしく冀った。このシャーマンの世界も、当時の仏教の加持祈祷が入り込み、憑霊者が自分の神を仏教に習合させることによって民間仏教化しつつあったのだが、空海がその世界に入っていったということは重要である。
 空海の知性は、入唐前の若い時期にすでに、難解な奈良仏教の教学をすべて頭に入れてしまっていた形跡がある。もしそうだとすれば、この当時の最高の知性人だったはずの青年が、土俗の世界に身を投じたわけであった。
 p95
 長安にあって空海は最初に、ムニシリというインド僧からサンスクリット語仏教バラモン教の基底であるインド哲学を学んでいる。尋常なことではない。空海密教の奥義に入る前に、基礎にある言語による哲学的思考法を身につけ、きわめて知的に、冷静にインドそのものを把握しようとしたのである。無用の比較かもしれないが、これを明治期のキリスト教の導入者と比べれば、空海と存在の奇跡的な大きさが理解できる。
 p97
 インドにおける土俗宗教であったともいえる密教は、中国にわたってもなお雑莢物が多く、師の恵果ですらそれを取り除くことができなかった。空海の巨大さは、彼が、インドや中国ではなお十分に体系化されていなかったその真言密教を、単なる輸入者でありながら思想として完璧に結晶化したことにもあらわれている。
 しかし、そのたった一人の完璧性のために、彼の真言密教は思想としても宗教としても、空海一代で終わり、その後の発展はまったくなかった。空海はインドの哲学風土から密教の精髄だけを抽出するためにサンスクリット――印欧語族を学んだ最初の日本人となった。その衣鉢を継ぐことは天才ならぬ弟子たちにとって、自分が人間以上の存在になることを要請されことに他ならない。