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内田 樹 「ためらいの倫理学」1(角川文庫)

 古だぬきは戦争について語らない
 p22-4
 一九九九年、朝日新聞にアメリカ人作家スーザン・ソンタグ大江健三郎の『未来に向けて』という往復書簡が載った。そのなかでスーザン・ソンタグは戦争に対する進歩派アメリカ知識人の典型的な文章を書いた。
 「作家の重要な責務は、斜に構えてはいけないということです。・・・・・私はベトナムには六八年と七三年にそこに行きました。サラエボでも三年間、現地で相当の時間を過ごしました。アルバニアにも二度滞在しました。
 戦争は、善意があっても思慮深くても、直接の体験の具体性のある言葉でしか伝えらえません。・・・・・どんな戦争地帯にも一度も近づいたことがないアメリカやヨーロッパの知識人たちが、尊大にもこれらの戦争について語るのを目にして、怒りを禁じえませんでした」
 このソンタグの感覚は、戦場に来ないであれこれ論評するだけの日本政府に「怒りを禁じえなかった」アメリカ政府や、湾岸戦争自衛隊を派兵しようとした小沢一郎の感覚と同じである。
 知的なバランスのとれた人は、ある人の知性を計量するとき、その人の「真剣さ」や「現場経験」は知性の勘定には入れないのが普通である。その人が、自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい冷静に意識化できるか、を基準にする。その基準に照らした場合、スーザン・ソンタグの知性はかなり低いと断じて構わない。
 p32-3
 ソンタグミロシェビッチが戦争を起こしていると思っている。ヒトラーがジェノサイドの張本人だと思っている。しかしジェノサイドは、「めざわりだから異物を排除する」というような「積極的・主体的な選択」ではない。それほど世の中は単純明快にできているのではない。その異物によって自分たちの社会が占拠され、文化が破壊されようとしているという切迫した恐怖に駆られたとき、ハナ・アーレントの言ったように、陳腐な、しかし、瀬戸際の「自己防衛」としてジェノサイドは発現するのである。
 スーザン、君は自分が、邪悪なインディアンの襲撃を阻止するために駆けつける「正義の騎兵隊長」的思考をしていると疑ったことはないのだね。、一度も敵に踏み込まれたことのないアメリカ人らしくね。だから、全米ライフル協会はいつまでも堂々とロビイ活動をしていられるんだね、世界中に軽蔑されながら。
 愛国心について
 p67
 以前、広島県教育委員会の命令で「君が代」斉唱と「日の丸」掲揚の完全実施を求められた高校校長が、反対する教職員組合との板ばさみに苦しんで自殺するという痛ましい事件があった。
 県教委は国旗国家が尊ばれる「単一文化の国民国家」という空しい夢を暖めており、県教組は「多様な文化が共存する理想国家」という同じく空しい夢を育んでいる。だが、この二つの夢は、同じ単純な精神から生まれた幻想の変奏曲にほかならない。国家と国民の関係は「すっきりと定義されるものであらねばならない」と考えるのだから、この言説はそこですでに双生児であり、すでにつまずいている。
 国家と国民の関係はねじれていて当たり前なのだ。国歌や国旗に対しては「愛着と反感」、「誇りと恥」を同時に感じてしまうのが、近代国家の国民の自然な実感なのである。ベトナムを経験したアメリカ人、スターリンを経験したロシア人、ナチズムを経験したドイツ人、文化大革命を経験した中国人・・・・どの国民も、全く同じである。
 有事法制について
 p132-3
十年ほど前、有事関連法案というのが成立した。「外国の武装勢力による国土侵犯」に備えるためである。だが、頭を少し冷やして考えてみると、いったいどこが日本を武装侵略すると言っていただろう。
 当時日本を侵略できる軍事力はアメリカにしかなかった。だとすれば「喫緊の有事」とは駐留米軍の機動部隊や空挺部隊が沖縄、岩国、立川などから出撃してきて主要都市を制圧するという悪夢だったのだろうか。それを自衛隊内でシミュレーションしておくということだったのだろうか。
 それは原理的に不可能なシミュレーションである。自衛隊内でシミュレーションする人たちがアメリカの世界軍事戦略の枠内でしか考えることを許されていないのだから。
 だがそれは同じように、中国による侵略も、ロシアによる侵略についても、誰も本気で考えていないことを意味する。というのは、もし中国やロシアが日本に侵略してくるとしたら、それはアメリカと「裏で話がついている」場合以外にありえないからである。ジョージ・オーウェルの『1984年』にあるように、世界を分割支配する大国の軍事戦略とはそのようなものである。
 日本がほんとうに危機的な状況とは、どこかの国の日本侵略にアメリカがOKを与えた場合と、アメリカ自身が日本を侵略する場合の二つしかない以上、有事法案の「有事」とは、日本のほんとうに危機的な状況について、その可能性を構造的に排除していることになる。つまり「有事」法案なのではなく、アメリカや国連のバックアップを不可疑の前提にした太平楽の「無事」法案だったのである。
 十年ほど経って、中国が本気の帝国主義に乗り出して、状況は少し変わった。アメリカは自国の経済可愛さに、東シナ海南シナ海での中国の暴虐ぶりに対しても、小出しに裏で話をつけ始めている。自衛隊と米軍は、中国や北朝鮮に対するでシミュレーションを繰り返しているが、そのシミュレーションを行う実直な自衛隊員は相変わらずアメリカの世界軍事戦略の枠内でしか考えることを許されていない。一部の右の人たちだけがこのことに気づいている。