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内田 樹 「ためらいの倫理学」2(角川文庫)

 アンチ・フェミニズム宣言
 p143
 私は若い頃、素直な心がまだ残っていたので、上野千鶴子ジュリア・クリステヴァの本を少し読んだ。
 フェミニストたちは「現代社会において、男性は権力を独占し、女性はその圧制のもとに呻吟している」と書いており、「男性は男権主義イデオロギーにどっぷりつかっているが、女性は抑圧される側なので、かかるイデオロギーからは自由であり、それゆえ男性よりも世の中の仕組みがよくわかる」というロジックが続いていた。
 しかし社会的な不平等があることと、「被抑圧者である女性にはこの世の中がよく見えており、特権享受者である男性には見えていない」ということは、論理的には全くつながらない。彼女たちの言うことは、ルカーチが古典的名著の中で「プロレタリアの目には世界が真の姿として階級的に見え、ブルジョワの目にはそれが見えない」と述べたロジックととても似ている。
 私・内田は、「自分が誤りうること」についての査定能力に基づいて、知性というものを判断することにしている。平たく言えば、「自分のバカさ加減」についてどれくらいリアルな自己評価ができるかを基準にしている。
 「男らしさ」の呪符
 p160
 家事労働は単に不毛であるばかりか、それを担うものに致命的な社会的ハンディをもたらすという考え方は、フェミニストの基幹的主張である。家事労働のマイナス面をつとめて強調することがフェミニズム運動に必要であったことを、私は理解できる。
 しかし家があるかぎり、家事労働は消滅することがない。家事あるかぎり、苦役の分配は不可避である。家族のうち誰がどれだけ家事=ハンディを受け入れるのか、という議論は愉快な議論ではない。家事の分担のためのネゴエーションは頻繁に家庭内に摩擦を生み出している。そのストレスのほうが家事労働そのものよりも人を傷つけるのである。
 東京で働く若い夫婦がいるとする。二人ともよく仕事のできる人であり、やがて子供ができる。そのとき夫にニューヨーク赴任の命令が出たとしよう。子供はどこで育てられるべきなのか、だれが育てるのか、それぞれの仕事をどうするのか、むずかしい摩擦が起きるだろう。こういうときフェミニストの基幹的主張はたいして役に立たない。
 p171
 私は、フェミニズムが社会を活性化するカウンター・イデオロギーにとどまるかぎり、その有用性を認める。しかしそれがある程度以上の社会的影響力を行使することには反対する。これはおそらくフェミニストからすると、「いちばん頭にくる」タイプのアンチ・フェミニズムであるだろう。
 性差別はどのように廃絶されるのか
 p214-6
 「性による社会的役割分担」がしばしばろくでもない結果を伴うことを私は認める。しかし、「じゃぁ役割分担をやめよう」と短絡するのはどうなのか。そもそも短絡できるものなのか。「性による社会的役割分担」がなぜあるのか、ということをフェミニストたちは吟味したのだろうか。
 人類が、類人猿時代も含めて、共同体生活を始めて百万年以上経つ。人類学者が教えるかぎり、先祖の中で、「性による社会的役割分担」をもたなかった社会集団はひとつとして存在しない。そんなふうにずっと存在してきて、いまでも世界中のいたるところにある制度を「もういらない」と言うには、それなりの説得力のある論拠が必要だろう。
 社会はつねに「より正しい方向」に進化しているのだから、古いものは棄ててもよいのである、という単純な進歩史観は、そのへんの子供のものである。いまのような社会制度をもった集団だけがいまに生き残っているという事実から推して、ここには何らかの人類学的な意味があると考えたほうがよいのではないか。
 ・・・だが、あの宮台真司たちによれば、そのような「大いなるもの」はもう要らないらしい。「大いなるもの」が要らないということは「小さなもの」で用が足りるということだ。
 彼らの「男女共同参画社会」という文脈での「小さなもの」とは「仕事」のことである。そしてその「仕事」とは、あけすけに言ってしまえば、「高い賃金と社会的威信、大きな権力、多くの情報」というようなものをもたらす「機会」のことである。「雇用機会均等法」のいう「機会」のことである。
 しかし「賃金、威信、権力、情報」というものは社会集団として共同所有できるのではない。はっきりいうと「ゼロサムなもの」、つまり、誰かから奪い取らなければ所有できないものだ。時代の流れは、社会的な財のうち「大きなもの=みんなが共有する国家・歴史・伝統という幻想」を最小化し、「小さなもの=個人がゼロサム的に占有する幻想」を最大化する方向に向かっている。そういう方向に進むことを「進歩」であると多くの人が信じている。
 それにしても内田氏はよくケンカをする人である。氏は、「もとが定期読者五○人ほどのホームページ日記だから批評されている本人は読むはずがない、という前提で書いていた。本にするときも、一度書いてしまったのはいまさら取り消せない」と、この本の成り立ちについて説明している。しかしこんな「言い訳」は批評される人をもっと怒らせてやろうという闘争心が見え見えなだけである。福岡伸一の対談本のなかで内田氏を初めて読んでとりつかれてしまったが、正義を声高に言う人を見ると追いつめずにはいられない氏自身の「不徳」のせいでずいぶん世間を狭くしているだろう(氏が自分で言っていることだが)。