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内田 樹 「ためらいの倫理学」3(角川文庫)

 「矛盾」と書けない大学生
 p265-71
 三年ほど前、学生のレポートに「精心」という字を見出したときには強い衝撃を受けた。
 だが、この文字はまだ「精神」という語の誤字であることが直ちにわかる程度の誤記だった。しかし去年、学生が「無純」と書いてきたときには、さすがにしばらく動悸が鎮まらなかった。
 レポートの文脈をたどる限り、この学生は「無純」の語をただしく「矛盾」の意味で用いていた。「無純」という文字を、「(対立者を含んでいるので)純粋ではない」と解釈していると思え、そのことは決してデタラメとはいえない。問題に感じたのはむしろ、語義を理解し造語する能力まで備えた学生が、なお「矛盾」という文字を知らなかったという、「知識の異様な虫食い状態」が蔓延しているということである。
 先日、こんどは入試の英文和訳の採点をした。「すごい」答案が続出して何度も赤鉛筆を落としてしまった。彼女たちが「英語ができない」からではない。「日本語ができない」からでもない。もはやそういうレベルの問題ではない。
 まったく無意味な文章が平然と書き連ねてあったからである。彼女たちは、誰が読んでも意味不明である文章を書いて、そしてそのことにご自身が心理的抵抗をあまり感じないのである。とすれば、このことを説明できるロジックは一つしかない。
 おそらく彼女たちの「世界」は、彼女たちの答案のような「意味の虫食い状態」として彼女たちの前にあるのである。意味の欠如がなんら不快や不足として感じられない状態、そのような知的状況に今の若者はいるのだ。草好きの牛から見ればミツバチの「世界」は、草を知らない「意味のない世界」である。ミツバチから見れば、牛の世界は女王も働きがいもない「意味のない世界」である。牛とミツバチのようにも、私たちと若者たちは違う世界に生き始めている。
 ためらいの倫理学
 カミュ『ペスト』は、「私」が「私」として生きることは当然の権利であるとする、人間の本性的なエゴイズムを扱った小説である。「自分の外部にある“特定の大悪”と戦う」という杓子定規の話型でしか正義を考想できない人間、それがペスト患者である。私たちは存在しているだけで、すでに悪をなしている可能性がある。生きているだけで害をなしている可能性があるというのに。
 戦後の第三世界における民族解放闘争のうちに「歴史の審判」を見る人にとっては、正義がいずれにあるかは自明のことだった。東北震災による原発事故のうちに政府・電力事業者に対する「歴史の審判」を見る人にとっても、正義がいずれにあるかは自明のことである。しかし被抑圧者の反抗が、抑圧者との一対一の対峙の構図を離れ、かつての「戦争遂行協力新聞連合」を味方につけて普遍的な「大義」の文脈で実行されるとき、それはかつての「粛清者の裁き」をみずから再現することになる。
 正義のありかを自明とする人たちは、自分たちが、電力事業者とともに、存在しているだけで悪をなしている可能性があることには、思いを及ぼさない。「戦争遂行協力新聞連合」は、生きているだけで、ペスト患者のように、害をなしているというのに。