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アンドレイ・クルコフ 「ペンギンの憂鬱」(新潮社)

 売れない短編小説家ヴィクトルと、餌代に困った動物園から引き取ったペンギンのミーシャ、ミーシャと同じ名前の父親から無理やり預けられた四歳の少女ソーニャ、十七歳のベビーシッター・ニーナが寄り添う不思議な「擬似家族」が描かれる。
 ヴィクトルは、短編小説の原稿を持ち込んだ新聞社からいろいろな分野の有名人の死亡記事予定稿を依頼される。(まだ存命中の)「故人」の名誉と不祥事をたくみにバランスさせたその予定稿は、新聞社の編集長に歓迎されて、ヴィクトルは思いがけない高収入を得るようになる。
 しかし後日、予定稿のストックがたまり始めた頃、そうした有名人が実際に次々と死んで行く。切々たる、かつ、皮肉に満ちた文体の死亡記事に、新聞の読者も注目するようになるが、擬似家族にも、拳銃や大金が送られてくるなど、恐ろしいような、おかしいような「事件」が次々におきる・・・・。
 小説全体としては、殺人の惨劇がとくに描写されるのでもなく、犯人探しのミステリアスな構成があるわけでもない。が、読む人はどんどん次に向ってページをめくってしまう。二十カ国語に翻訳され、特にフランス、ドイツではとりわけ人気になり、クルコフを現代ウクライナの代表作家の地位に押し上げた作品であるらしい。
 訳者も「あとがき」で書いているが、「擬似家族」を、イデオロギーで無理やりひとつにさせられた大家族「ソビエト連邦」と解釈すべきであると、まじめくさって政治的に読まねばならぬ謂れはない。まったく擬人化されずに描かれた、人間以外に仲間のいない群生動物・ミーシャの孤独さが、読むものの心をやさしくペタペタと打ってくれる、とても上質の娯楽作品である。

 p185−7
 私・ヴィクトルは、動物園で知り合った風変わりな老ペンギン学者・ピドパールィのことを思った。ピドパールィは現役時代、イギリスがウクライナに南極の基地を贈呈し、ウクライナの学者を南極に送り込むという壮大な企画に五○○万ルーブルを寄付したことがあった。その彼が、金のない患者にはロクな薬さえ処方しない病院で死んでいった。
 ピドパールィは、たしか言っていたっけ。 「いいか、私が死んだら、かならず部屋に火をつけてくれ。私の一番いい時期はもう経験しちまったんだよ。わかるだろ?だれかが私の椅子に座って書類を引っ掻き回して、それから全部ゴミ箱に捨てちまうなんて、耐えられないんだ。若かったころの、一番いい時期に慣れ親しんだものは、残して行きたくないんだ」
 持てる金を全部ペンギン研究のために寄付して、あんなに気取りなく死を迎えられるなんて。「私にやり残したことはない」と、ピドパールィは言っていた。私・ヴィクトルには「やり残したこと」はあるが、もしなかったとしても、近づいてくる死を、あんなに心安らかに迎えることはできないだろう。だがピドパールィは、「つらい生のほうが楽な死よりもましだ」とも言っていたっけ・・・・。
 p197
 私・ヴィクトルは思う。ピドパールィはきっと、自分のアパート――、三十年か四十年くらい時代に遅れているが小さくて居心地のいいこの世界――、に部外者が手をつけるのを嫌ったんだ。この世界が崩壊するところを、親しい誰かに見届けてもらいたかったのだろう。動物園にたまたま行ったばかりに、ピドパールィの「親しい誰か」に選ばれた私はとても幸福だった・・・。