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E.M.フォースター 「ロンゲスト・ジャーニー」(みすず書房)

 登場人物全員が実生活の用にはまったく役立たない、男も女も半分狂ったような人間である。第一部を過ぎても、他人に見えた男二人が片親兄弟かもしれないと告げられただけで、できごとは何も起きない。E.M.フォースターはとても上手な文章と皮肉のよく効いたペダンティシズムだけで、読む人を十九世紀イギリスジェントリー階級特有の偽善と自己満足の世界に引きずり込む。
 第二部のはじめにおいて、ケンブリジを卒業して、憧れの女に不思議に愛される主人公リッキーは、「『生活が存在する』イタリア人のように、美や知恵を得ようと熱望してはいなかったが、世界を暗くしかしない自国の空気から救い出されたいと求める」ようになる。ここから、イギリスの帝国主義繁栄の基礎にあるものが、自営農の国家的団結心と、貧弱で面白みのない哲学と家系図とローストビーフだけで、シェイクスピアを例外として音楽も絵画も彫刻も生み出さなかった、ただおしゃべりが好きな国民であることが痛烈に描かれて行く。

 p199
 (いかにも年取ったイギリス女の)フェイリング伯母は協会の会衆たちを見渡した。牧師の妻がいた。使用人頭の妻の帽子が見えた。そのほかの会衆は平べったい希望のない顔をした貧しい女たち、数人の農夫たち。何列もの汚い子供たちが混じりあっていた。
 フェイリング伯母は自分が冷たい眼をした北欧のヒロインになった気でいた。他の人々をぞっとさせようとも、それが全部に伝染しないかぎり一向に平気なイギリスの老婦人だったのである。
 p265
 (いかにもイギリス男の)ハーバートはどこか間違っている、いや全体として間違っており、もし人間性の霊魂が裁定を下されるようなことがあれば、ハーバートは必ず悪人の一人に分類されるだろうとリッキーは感じていた。(作者お気に入りの)リッキーによればハーバートは普通の意味において愚かなのではない、重要な意味において愚かなのだ。彼なりのまずまずの知性があるということは問題ではない。われわれが試されるのは、何を所有しているかではなく、何に価値をおくかである。
 ハーバートが、精神的生活について立派な口をきいているものの、物事を判断する手段を一つしか持っていないことにリッキーは気づいていた。つまり成功――この世では肉体にとっての、あの世では魂にとっての成功である。このため、人間性および他のあらゆる法廷も、きっとハーバートを拒否するだろう。
 p283
 (作者お気に入りの)アンセルは大英図書館の閲覧室が好きだった。ここにいると、自分の人生が下劣なものではないことを悟るのだった。真理は手に入るものではないが、真理を捜し求めながら、世界の始まりの時点で正確に示された問題を再び正確に示しながら、年老いて、埃にまみれていくことは価値あることなのだ。彼を待ち受けているのは失敗だろう。しかし幻滅ではないだろう。
 p293
 (作者お気に入りの)誠実なリッキーは自分自身を移り気だとみなし、(いかにもイギリス女の)アグネスとの結婚の責任をすべて自分に負わせた。しかし、感情と頭脳のある重大な欠陥はアグネスの側に残ったままであり、リッキーのいかなる自己非難もそのアグネスの欠陥を減らすことはできなかった。
 p319
 アグネスにも、自分の結婚が失敗だったことが分かっていた。そして、手の空いているときには、結婚を悔いていた。若いアンセルはアグネスがリッキーのもとを去るだろうと想像していたが、それはアンセルの間違いだった。「いや、いや。不平を言ってはいけないわ。仕方がないわ」と考えるアグネスは精神生活が消え去った人間として行動するのである。
 p426
 好ましい人間を要約する公式などはない。(作者お気に入りの)アンセルはそう説き、その上で公式を提案しようとしていた。「好ましい人間とはまじめでなければならない、嘘をつかない人間でなければならない。まじめとは気難しいという意味ではないのだ。だが、人生とは重要な事態であり、われわれの住む土地が単に時を過ごす場ではないことを確信していなければならない。」
 p443
 (いかにも年をとったイギリス女の)フェイリング伯母はとても頭が鋭く、とても想像力に富んでさえいた。それにもかかわらず伯母は、人々とはどういうものかを忘れてしまっていた。人生を退屈だと思い、化学者が溶液に新しい元素を垂らし入れるように人生に嘘をたらしいれ、それによって人生が火花を出したり、美しい色になるだろうと期待していた。彼女は他の人たちに誤った判断をさせるのが好きで、最後には自分にも誤った判断をさせることになる女だった。