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V.S.ラマチャンドラン 「脳の中の幽霊」(角川文庫)1/4

 ラマチャンドランの名前はときどき聞いていたが、この本に養老孟司が解説を書いているとあったので、読んでみた。オリヴァー・サックスが序文を書いていた。
 V.S.ラマチャンドランはカリフォルニア大学サンディエゴ校・脳認知センターの教授である。幻肢の研究でこの十年くらい?とても有名になったヒンドゥー系のインド人である。養老孟司が『解説』で言っているように、脳「科学」、実験「科学」、進化論に対する議論――その中の「推論」の面白さ――には、ラマチャンドランが東洋人であることがはっきりとあらわれている。
 少し後にもあるが、「幻肢」という現象には、わたしたちの「身体」そのものが脳がまったくの便宜上、一時的に構築したものだ、という深いメッセージがこめられている。「幻肢痛」の存在は実験で確かめられるが、その実験結果から、「身体」イメージそのものが「脳の構築物」であるという結論が生み出せるまでには、かなりの径庭がある。その間の論理可能性をひとつずつ列挙していく推論の力は、あの目のくらむようなヒンドゥー哲学の環境に、子供の頃から染まっていないととても身につくものではない。
 実験だけを極端に重視し、推論を(主観が入るとして)抑圧する西欧系の(そして日本でも主流の)脳科学と、得られたデータの解釈に「或る世界性」を賦与しようとするラマチャンドランらの脳科学には、「客観性」の取り扱いにおいて微妙な違いがでてくる。とくに、痛み・食感・臨場感などクオリア(主観)が問題となるところでは、ポリティカリー・コレクトなだけの客観主義による評価では、患者にとってなんの意味ある診断ももたらさないだろう。

 人格
 p29
 多重人格障害の患者は、「人格」が変わるたびに、実際に眼の性質が変化する、あるいは血液の性質が変化するという臨床医の報告がある。たとえば眼でいえば、近視の人が遠視になる、青い眼の人が茶色の眼になる、血液でいえば、ある人格のときは血糖値が高く、別の人格のときは低い、ということである。
 幻肢
 p67-9
 事故などで手を切断すると、手術してわずか数日後にも幻肢痛が起きる人がいる。その人の脳を見ると、本来は手からの信号を処理する部分に、顔面や上腕から入力される感覚が侵入していることが多い。幻肢痛とは、その人が微笑んだり唇を動かしたり、上腕を動かしたりする顔面や上腕からの信号が、失われた手からの痛覚信号として脳に伝わることである。(成人の脳が可塑性がない、脳の各領域の仕事は固定されているというのは、そういわれているだけと考えたほうがいい。)
 だから、(理屈上は)幻肢痛を取り除く唯一の方法は顔面や上腕を除去することだということになる。しかし仮に顔面や上腕を除去しても、何にもならない。こんどは顔面や上腕の幻痛が出るからだ。
 p107・109
 幻肢という現象には「わたしたちがふだん実体性を疑わない身体のイメージそのものが幻であり、脳がまったくの便宜上、一時的に構築したものだ」という深いメッセージが込められている。
 知覚のメカニズムには、ヒトが成長していく過程で、主としてと外界から統計的な相関を自分本位に導き出し、暫定的に有用なモデルを作り出すという原理が働いている。この原理が作り上げるのが「他とは独立した自分の体」というイメージであり、ふだんの生活の中でその実体性が疑われることはない。
 しかし、たとえば子供や愛する人が危機に陥ったときの、相手を自分と同一視するような、とらえどころのない心理現象を考えただけでも、その実体的なイメージは「平和状態にある脳が構築したものにすぎない」ことがわかる。