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V.S.ラマチャンドラン 「脳の中の幽霊」(角川文庫)2/4

 盲視
 p127-32
 眼球から入ったメッセージは視神経を通り、すぐ二つの経路に分かれる。この二つのシステムにははっきりした役割分担があるらしい。
 一つは系統発生的に古い「定位」の経路で、もう一つはそれよりも新しく、一次視覚皮質と呼ばれる。この一次視覚皮質は霊長類と人類でもっともよく発達している。
 患者Dの場合、脳に異常な血管の塊があり、その血管の塊は右の一次視覚皮質にあったので、手術のあとDは視野の左半分がまったく見えなくなってしまった。しかしそのあと奇妙なことが起きた。医者がそのDのまったく見えないはずのところに手や棒を出すと、Dはそこに的確に手を伸ばしたのだ。
 医者たちはこの現象を「盲視」と名づけたが、Dにどんな感覚なのかを質問すると「刺激が近づく感じ」とか「遠ざかる感じ」がしたり、「なめらか」とか「ぎざぎざ」した感じがすると答えた。
 系統発生の時期的に二つの視経路が異なる役割を分担していることを考えると、このパラドックスが解ける。Dの場合は一次視覚皮質を失って左の視野が失われたが、系統発生的に古い「定位」の視経路は健在で、これがおそらく「盲視」を成立させているのだ。
 この解釈は尋常ではない意味を含んでいる。つまり意識に上る(「見ている」と意識される)のは新しい経路だけで、一方の古い経路は、何が起こっているのかをその人がまったく意識していない状態で、視覚入力をあらゆる行動に利用できるという意味だ。つまり意識は進化的により新しい視覚路に特有の性質だということになる。
 「何か」を考える回路と、「いかに」を考える回路
 p138
 私があなたに向かってボールを投げると、あなたの脳のあちこちにある数箇所の視覚野が同時に活性化されるが、あなたが見るのは一つにまとめられたボールの像だ。この統合は、すべての情報がひとまとめにされる部位――哲学者のダン・デネットが軽蔑的に「デカルト劇場」と呼ぶもの――があるから生じるのだろうか。
  ラマチャンドランの、このデカルトへの侮蔑は、小坂井敏晶『責任という虚構』の序章に数回出てくるデカルトへの「子供じみた」非難と通じている。「理性的精神が行為を司るというデカルト的自己像は誤っている」とか「デカルトが考えたような統一された精神や自己は存在しない」とかは――在仏が長かった怜悧な小坂井氏がなぜ興奮口調になるのか?と私が思ったほど――自明なことだが、欧米ではデカルトのブランドバリューが日本に比べて圧倒的ということで、わざわざこんな言明があるのだろうか。
 p142-3           
  被験者の前に同じ大きさのボールA、Bを置く。Aは自分より小さいボールに囲まれており、Bは大きなボールに囲まれている。この場合明らかにBのほうがAより(たぶん30%も)小さく見える。これは正常な被験者なら必ずそう答える錯視である。ところがその被験者にAとBのボールを一つずつ取るように指示すると、その被験者は必ず同じ大きさに指を開いてボールをつかむ。
 錯覚を起こしているのは対象が何かを認知しようとする回路だけであり、それをつかもうとする手を動かす回路はだまされない。手を「いかに」動かすかに関わる回路は、対象が「何か」を知ろうとする回路が知らないことを知っているのである。
 自分の脳に単一の「私」あるいは「自己」が存在するというあなた(読者)の考えは多分たんなる幻想である。その考えはあなたの生活を効率よく組み立て、あなたに目的を与え、人との交流を助けるものではあるが、それでも多分幻想である。
 心配性な右脳
 p40
 右脳が左脳に比べて情緒的に不安定な傾向があることは昔から知られている。左脳に卒中を起こすと不安に陥ったり回復の見込みについて気をもむことが多い。左脳が損傷を受けたために右脳が優勢になり、あらゆることに悩むようになったからだと思われる。
 反対に右脳に損傷を受けた人は(心配性な右脳が働かないから)自分の困った立場にまるで無頓着な傾向がある。優勢になった左脳はあまり動揺しない脳なのだ。
 p192
 左半球は多くの面で言語に対して特化し、右半球は感覚処理の情動的な面や「大局的」あるいは全体感的な面に対して特化していることが分かっている。このことは視覚についてもいえることで、右半球は左側全体と右側全体の両方を照らす幅広い「関心のサーチライト」を持っている。一方、左半球のサーチライトはもっと小さく、世界の右側に限定されている。おそらく左半球は話し言葉の統語的な構成や意味の解釈など、そのほかのことで忙しいのだろう。(言語について右半球は詩や神話や演劇などに関与しているようだ。)