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J・M・クッツェー 「恥辱」(早川書房)

 場所は南アフリカ。よく女性にもてる、セックス依存症といってもいい五十二歳のオランダ系白人の大学教授が、ふとしたことから自分の講座の白人女子学生と寝てしまう。その女子学生は、はじめは彼のすることに対しておとなしかったのだが、彼が調子に乗って彼女の自宅に押しかけてまでことに及ぶと、突然大学当局に訴えられ、査問委員会にかけられる。
 総長たち大学当局は、彼がいまの時代に合わせ、“心からの”反省の弁を述べれば厳重注意くらいで納めようとする。しかし彼は、正義をポリティカリー・コレクトに求める大衆の偽善に憤怒する。そして、総長や学部長との和解をあっさりと蹴り、懲戒解雇されてしまう。
 
 p103
 「やつらの和解案など、やけに毛沢東の中国を思わせるんだよ。前言撤回、自己批判、公的謝罪。カウンセリングを受け、人格を再教育しなさいというわけだ。私は旧弊な人間だ。それなら、壁の前に立たされてあっさり銃殺されたほうがいい」
 「いまは清教徒的な時代なんだ。私生活が公に扱われる。学生と寝ただけの私が胸をかきむしって嘆き、自責の念に苦しみ、あわよくば、涙でも流してくれれば、とね。本当いえば、私を去勢したいくらいだったんだろう」
 彼は前妻とのあいだにできた娘の農園に、逃げるように移り住む。娘はフェミニズム運動が理論武装を始めた頃に生まれた、アフリカ人として生きようとする白人であり、妻を二人持つ黒人とケープタウン東の田舎町で農園を共同経営している。
 本来の南アフリカであるこの場所で、彼は、白人の知識人として当然のように持っていた地位と金と名誉をすべて奪われるという、ひどい『恥辱』を浴びることになる。娘の農園に三人組の黒人が押し入り、娘はレイプされ、彼はアルコールを浴びせられて目と耳に大火傷を負ったのだ。共同経営者の黒人は事件について何も言わないが、きっと一部始終を知っている。父親よりも、“アフリカ”を身体の奥深くで知っている娘は、犯人の一人に心当たりがあるのだが、警察に訴えようとはしない。

 p244
 「ここの者たちは、その昔入り込んできたわたしたち白人に貸しがあると思っている。だから自分たちを借金の取立人か収税吏のように思っている。レイプは彼らにとっては当然の権利なのよ。それを払いもせずに、どうしてここで暮らすことを許される?」
 p315
 「父さんの言うとおり、屈辱よ。でも再出発するにはいい場所かもしれない。受け入れていかなくてはならないものよ、きっと。最下段からのスタート。無一文で。丸裸で。武器も、土地も、権利も、尊厳もなくして、犬のように。ここの人たちが、私たちが来てから、ずっとそうだったように」
 過去三百年以上、南アフリカはオランダ系を中心にしたボーア人に支配されてきた。アパルトヘイトは撤廃されたが、文化や価値観は法律の条文によって変わってしまうものでは当然、ない。ただ訳者あとがきにあるように「力の発信源が西欧から離れて行っている」ことは、この小説から確かに感じられる。