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J・M・クッツェー 「遅れた男」(早川書房)

 初老の主人公ポール・レマンはプライドの高い小金持ちのインテリある。その彼が冒頭の第一行で自転車ごと若者の車にはね飛ばされ、左足が膝から下をグチャグチャにされる重傷を負う。左足は切断するしかなく、退院後もレマンは生活のほとんどを派遣介護士に頼らざるをえななくなる。
 しかし、ヘルスケアのプロたちはどいつもこいつも老人を子供扱いする。やる気のない子供の尻を叩くようにして、自分のやり方を強制しようとする輩ばかりだ。
 マドレーヌというチアリーダーのような介護士は、失われた左足の記憶を再プログラムするために、ダンスを取り入れる。「さあ音楽を聴いて、リズムに身をまかせるのよ。」マドレーヌはクラス全員に呼びかける。ポールのまわりでは、みじめに義肢をつけた男や女たちがマドレーヌの動きを一生懸命まねている。
 義肢装着を最初から拒否するポールにはそれができない。「足のないものにダンスなどとは、催眠術のまやかしみたいなものだ!なんと古臭い、時代遅れの手口だ!」ポールはそう胸のうちでつぶやいて、音楽に合わせて体をわずかに揺らしながら汗の噴き出すような屈辱感に耐える。
 そんなポールのところにマリアナというクロアチア移民の新しい介護士が派遣されてくる。週に六日。リハビリやマッサージのほかに、掃除、食事作り、洗濯までも引き受ける契約で。片足を失い、外界との接触を絶たれたポールは、当然のことのようにマリアナに恋をする。マリアナは夫と三人の子供がいるのだが、ポールは「現在の夫とはコ・ハズバンドでもいい、プラトニックでもいい、息子の大学の資金は全部出そう」と、マリアナにひれ伏すように懇願する。
 ・・・・ここまで読んできて、普通のラブロマンスが展開するのだと思っていた。しかし、『恥辱』を書いたノーベル賞作家はそんなことはしなかった。
 作品の半ばになってエリザベス・コステロという七十台で心臓病み、見た目もよくない謎の大女性作家が闖入してきて、物語の全体を混沌の中にひっくり返す。このエリザベス・コステロは作られた登場人物でありながら作者クッツェーの鏡像である。 「登場人物全員を見つめている創造者クッツェーを内側から見つめている」、と同時に、「その振られた配役を演じきっている」、読者にとってはこの上なく悩ましい老大家である。
 訳者が「あとがき」で言っているが、人は災害にあっていかに生くべきかといったテーマがかなりストレートな形で表現されている。その意味で<老老介護>リアリズム文学でもあるのだが、小説の構成としてはメタフィクションという現代的手法とリアリズムが渾然と結び合わされ、読む人に先を予測させない。(アメリカ屈指の文芸サイトで評されたというように)、
「ポールの悲しさを際立たせているのは、悲しみをいたって素っ気ない文体で書くクッツェーの才能ゆえである。読むものはポールの苦境そのものより、むしろそれを語る文章の徹底した潤色のなさに絶望感を喚起される。」