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養老孟司 「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)1/5

 宗教体験
 p18
 脳がある体験をすることと、外界にその対応物が存在することは、別なことである。宗教方面の少し高徳なあたりでは、時々これを一緒にすることがあるので、困る。比叡山を千回走り回ると、その僧の内部では何らかの世界解釈が変わるであろうが、それは新しい世界解釈に対応するものが外界に新しく生じたと、いうことではない。「生じた」と彼が言うなら、それは「ニューサイエンス」である。そこから麻原彰晃の「空中浮遊」との間に千里の径庭はない。
 数学で世界を解釈できないことはない。しかしそれでは世界の大部分はこぼれ落ちてしまう。数学に恋はあるか。色はあるか。では数学とは何か。それは要するに脳の機能である。つまり脳内の過程である。
 p22−5
 宗教体験には、脳内のモルヒネ様物質とそれを受け取る受容体からなる、「気持の良い感情」をつくりだす報酬系のシステムが深くからんでいる。
 ということは、新しい世界解釈を生み出す宗教体験は、言語などに関連した上位中枢よりは、食や性など生物の基本的活動に関連した下位中枢に支配されていることになる。
 食や性が不快では生物は生きられないから、そうならないよう、上位の意識中枢では下位中枢をコントロールできないようになっているのである。
 報酬系というのは脳ではきわめて重要な役割を持っている。「動物は報酬系への入力を最大化しようとして行動する」という仮説で、ヒトを含めた動物の行動をすべて説明しようと試みている学者があるくらいである。
 坐禅の場合も、上位の中枢をうまく抑制することが要諦である、と考えられる。そもそも「不立文字」などとは、言語中枢の活動を無視しろというものである。つまり大脳皮質の重要な機能を抑え込もうというわけである。
 p47
 シンボルとは、アナロジーという脳の一機能の帰結である。ではヒトの脳になぜアナロジーが生じるか。それは脳に剰余つまり余分が生じたからである。動物では環境からの特定の刺激に対して、生理的に必要な行動のみをしているが、ヒトではなぜか脳に余分が出来てしまったために、環境からの刺激だけではなく、ヒトの脳内活動そのものが脳の活動を引き起こす刺激に変化したらしい。
 ネコであれば魚の匂いという具体的刺激が摂食行動の動機になりうるが、ヒトなら、金が儲かりそうだという「考え」が、ネコにとっての魚の匂いという生理的刺激の代用になりうる。ヒトでは脳内の思考自体が、動物の場合の生理的刺激の代用なのである。ヒトの脳内にはネコが魚の匂いを嗅いだときに近い回路があるはずで、「代用刺激」がこのアナロジー回路を起動させる。そしてヒト独特のシンボルが生まれる。
 p54-5
 ヒトは進化の過程で脳が大きくなり、アナロジーが発生したため、何を現実とするかが個人によって違うという状況になってしまった。科学、芸術、宗教、言語、学問などのシンボルは、この状況にまとまりをつけ、世界を整合的に理解するための「統制」手段として発生したのだろう。
 宗教はそのなかで個人によってバラバラの生死観を統制し、生と死を整合的に理解するためのシンボルとして生まれた。しかしそれは、じつは自分の頭の中を整合的にしようとしているだけであって、その結果世界が整合的になるわけではない。いくら宗教が生死観を判然とさせたからといって、ヒトが死ななくなるわけではない。現世はこちら側の世界だが、宗教は徹底的に内的な世界である。つまり脳内の世界である。生物学的に言えば、もっとも進化した世界の一つということになろうか。
 現実でないものに現実感を賦与するシンボルの機能とは、脳自身による脳の維持という側面を持つが、宗教はそれを典型的に示す。だから宗教人はしばしば精神力が強靭なのである。