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養老孟司 「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)2/5

 「死」の解剖学
 p80-1
 脳死を仮に死であると定義して、わたしは植物状態脳死の間に線を引かない。わたしが植物状態になって数年経てば、家族の状態はまったく変わる。わたしは仕事をクビになり、ローンを支払わねばならず、医療費も支払わねばならない。生命保険は入らない。ゆえにわたしは植物状態を死と認めてもらいたい。しかし、わたしの事情を一般化する必要は毛頭ない。
 わたしを植物状態で「生かし続ける」ことはしてほしくない。しかしそれが天皇にまで及ぶか。それがこの国の問題であろう。
 基本的にはその判断は本人のものである。あらゆる判断には危険が伴う。(上のほうとメディアで)その判断を避ける世の中をつくればつくるほど、個人の生は「安全」となり、不思議なことに、生は無意味になっていく。定まった道を歩むことになるからである。その種のやり方は、そろそろいい加減にしたらどうか。「生きていない」医師に、「生死の判断」ができるはずがないのである。
 p96-7
 臨死体験とは、瀕死の状態に置かれたときに残された脳の機能を、覚醒状態に戻ってから「話として語る体験内容」である。それは、論理的には、夢に類似している。低下した意識に生じた内容を、元に戻った意識状態で語るのだから、(意識水準が低下していたときに生じた)記憶に残らない体験はすでに排除されている。
 さらに、記憶に残った体験も、体験したときと語るときの意識の水準が違っているので、両者が正当に翻訳可能という保証もない。夢とは、つねに覚醒水準で、睡眠中の意識を語るものだということを忘れるべきではない。意識の水準が「異なる」ということの意味を、われわれはまだ正確には知らないのである。
 臨死体験は一種の神秘である。しかし宗教的な神秘体験と比べると、覚醒状態で起こったものではないことが特異である。臨死体験が「神秘」だというのはおそらく「希望」であって、現実ではない。そこにはさしたる神秘は含まれていない。
 臨死体験が流行するのは、社会現象である。理由ははっきりしている。現代が情報・管理社会であって、そこでは予測されないもの、管理できないものは排除されるからである。
 他方、人は自然の中から発生したものであり、それ自身が自然の一部である。だから人間の性向には予測不能、管理不能な「自然」に対する強い好奇心がある。社会がそうした自然を排除しようとする以上、その好奇心は自分のもつ「生理的な神秘」に向かわざるをえない。この好奇心には、しばしば「超」科学を志向する胡散臭さがある。
 p103-5
 墓は埋葬儀礼と関係しており、埋葬儀礼の一部の永続的表現とみなすことも可能だ。だとするなら、墓は本来自分のためのものではない。
 自分を規定するのは自分であり、世間が勝手にわたしを規定するのは真っ平であるという人にとっては、墓は不要となるはずである。自己が自分の内で閉じられる以上、そこでは墓とはどこまで行っても他人のためのものだからである。
 いまでは、死んだら骨を海に撒いてくれという人が多い。自分をあくまで自分で規定したいという思いの分かりやすい現われだろう。そうした人には、たとえ家族のためであっても、「他人のための」墓など要らないのである。