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養老孟司 「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)3/5

 「霊魂」の解剖学
 p143
 自然である身体には男女の差がある。男女の扱いに、社会においてかならず差異が発生するのは、差別ではない。(「常識」とは逆に)自然がおいた差異をなんとか統御しようとする脳の努力の反映である。
 したがって社会は自然の男女差に社会的「役割」を振り分ける。もともと自然の差であったものを、社会的であるかのように偽装する。そこに、世に言う「男らしさ」「女らしさ」が発生する。しかし、それは偽装であるがゆえに、いずれ馬脚を現わす。
 人によっては、オカマを不気味と感じる。オカマでは「自然の性」が人工的に逆転表現されているが、そのことによってわれわれは、死体の場合とまったく同様に、性の「自然性」に気づかされるのである。
 なぜなら偽装された性の背後には、「偽装の裏側」としての真の「自然の性」が残存するからである。つまり、オカマから人工的女性の部分を完全に差し引いてしまえば、あとには(一切の「社会的な性分担」を欠いた)「男性」のみが残る。これはいわば(社会的に「生きた役割」を欠いた)「死んだ男」ではないか。死体は不気味に決まっている。
 p153
 私たちは、理解すべき自然の領域から、認識の主体を除外してしまっている。客観的な外的世界というものは、すべて脳という自分自身の素材で作り上げたものだからである。
 ユングも同じようなことを言う。「すべての学問は(脳の一機能である)心の働きにほかならず、すべての知識はここに源を発する。心は宇宙の不思議の中で最大のものである。西洋は、きわめてまれな例外を除き、心がそうしたものだということを認めてこなかった。」
 臨床仏教
 p158-60
 心身の「実在」は、つまるところ「実在感が何に付着するか」という問題である。「不変の自我」とか「コギト」に強い実在感を持つ人は、心は脳の一機能であるとは考えにくい人だろう。
 この種の実在感の対象は、人によってさまざまである。その対象が国になれば、国家の官僚となる。ところが人によっては、国とは実在ではないし、国家主義者はそう聞いただけで怒り出すだろう。
 実在感のあるもの、それを現実と人は言う。現実もまた、その意味では、脳が作り出す。神秘主義とは、その現実が、一般に認められる事物でも、理性で証明されるものでもないものを言う。そういうものに実在感が付着するとはおそらく稀なできごとなのだろうが、そうかといって、それがないはずはない。もし実在感という「機能」が存在し、それの対象が脳内過程であるとすれば(事実そうであることは疑えないが)、神秘主義の発生はいささかも「神秘」ではない。
 p169
 言語はブローカの運動性言語中枢から表出される。ここを傷害された患者は、言いたいことがあり、他人の言語をある程度理解できても、発話ができない。ところが歌詞つきの歌なら、しばしば歌えるのである。この場合、歌の歌詞は言語であるのか、そうでないのか。
 同じように、お経も生物学的には案外面倒なものである。読経は音声言語か否か。わが国にお経が入ってきた当時以降、文字がしっかり人に根づいていくにつれて、音声としてのお経は、文字に表現されるような部分をむしろ消していったもの、すなわち音楽として改めて意識された可能性がある。
 文字という視覚言語は言語をより明晰にするが、とくに宗教のように、明晰さを必ずしも目的としない領域では、肝心の部分を落としてしまう可能性も高い。