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養老孟司 「カミとヒトの解剖学」(ちくま学芸文庫)4/5

 「浄土」の見方
 p181-98
 人間の考えることは、論理的にはすべて脳の機能に還元される。しかし、ある人が「何を」考えているか、その詳細はとうていわからない。
 たとえば、下は中沢新一氏のきわめて難解な「極楽論」の一節である。我慢して数行だけ読んでほしい。「天国や浄土はわれわれのとらえる空間性の内部にある。なぜならそれは空間形成性の先端部にある『点』と異ならないが、そこからいっさいの空間表象がかたちづくられてくるからである。天国と浄土はわれわれのとらえる空間性の内部にはない。その『点』があらゆる空間表象に先立つ無限というものにひたされているからである。・・・・天国はもはや表象でも観念でもなく、われわれの存在様式そのものとなる。」
 いやはや、禅宗高僧の「絶対矛盾の自己同一」もよく分からぬ話であるが、この中沢氏の極楽論も意味不明といわざるを得ない。しかしここでの言語の利用のされ方が、通常の言語の使い方と異なることは、よく理解できる。
 そして、「何を」考えているか、ほとんど不明の叙述をこれだけ続けることは、狂気でないかぎり不可能である以上、天国や浄土を言語化するとこういうことになると思うほかはない。その意味では、どれほど脈絡が取れなくても、大脳皮質の動きとしての意味はあるのである。ただし、それを解釈できるほど大脳皮質の生理学は進歩していない。
 p202
 「企画書」にかかれた「わが社の将来」とは、コンピュータに予測され、統御された「確実な未来」である。それはもはや未来ではなく現在であろう。われわれは可能なかぎり予測を進め、その結果にしたがって未来を予測する。それが進めば進むほど、未来はどんどん現在に転化してきて、サラリーマンはどんどん忙しくなる。現在に対して打つべき手が、無限に要請されるからである。
 p210
 数学の問題が解けるときには、書き表された証明の順序で思考が進み、その結果、最後に問題が「解ける」のでは決してない。まず直観的に解けるのである。証明は、そのあとについてくる。
 その「最初に解ける」段階でどう自分が考えたか、はもちろん「わからない」。その段階では、脳の深いところで、すなわち意識に上らないところで、なにかの過程が進行しているはずである。 この過程はフロイトの言う「無意識」とはまったく違う。フロイトの「無意識」は抑圧を除いてやれば意識に変化するが、数学の「わかった」はそれとは違う、本人にもわからない過程である。
 こうした真の無意識は、脳の中でも、進化的に古い部分が関与する機能である。ところが証明に相当する意識は、新しい部分の機能である。この新しい部分の機能、これがコンピュータの原理である。人はそれを「意識できる」から、文字や記号として脳の外に持ち出せたのである。
 問題は、ヒトが新皮質だけでできてはいないことにある。たとえば、情緒とは、脳でいえば、旧皮質の機能である。それは、コンピュータとは、はじめから無関係である。コンピュータと情緒との関係を問う人は、すでに思考が「ハイテク化」してしまっている。