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村上春樹 「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)1/2

 村上春樹は何冊かしか読んでいない。この『ねじまき鳥クロニクル』はとても面白い話だがなにせ長いし、どこに引っ張っていってくれるのかなと、半分過ぎても予想がつかなかった。ところが三巻本の三冊目に「牛河」という、一度見たら忘れることのない風貌の男が出てきて、ああそうなのかと思った。「牛河」には『1Q84』でも重要な役が振られているので、「村上ワールド」の神話の、読者を引きずりこんでいく構造までが垣間見えた。牛河とはこんな男である。
 第三巻p188
 「牛河は、素人が間に合わせに塗り替えたポンコツ車の塗装のような茶色の背広を着た、背の低い男だった。身長は一五○センチをそれほど超えていないだろう。鼻は大きかったが詰まり気味なのか、息を吸い込んだり吐き出したりするたびに、ふいごみたいに音を立てて膨らんだりちじんだリしていた。話すときには、タバコに染まった乱杭歯が見えた。僕がこれまでに会った人間の中でも、間違いなく一番醜い何人かの一人だった。そして牛河には、ただ容貌が醜いというだけでなく、言葉では形容できない不気味さがあった。それは暗闇の中で素性の知れない大きな虫に触れてしまったときに感じる気味の悪さに似ていた。」
 「僕」である主人公岡田亨のほかに妻・クミコ、クミコの兄・綿谷ノボル、笠原メイ、加納マルタ・クレタ姉妹、赤坂ナツメグ・シナモン母子・・・などいろいろな人物が登場する。それらの人間はみんな「変わった」人であり不思議な行動をする。不思議というのは、キリスト教旧約聖書の人物が「変わった」人であり、自分の息子を生贄として捧げるような不思議な行動をするという意味である。いうならば『ねじまき鳥クロニクル』は二十年前に完成された村上春樹の神話体系小説第一作なのかもしれない(これ以前の作品に「牛河」が出てきているかどうかは知らない)。
 神話なのだから、ある行為(入力)とその結果(出力)には因果関係が薄い場合が多い。ある行為と結果のあいだには、読者には秘密の水脈が流れているのだ。一見わけの分からないエピソードがいくつも出てくるが、読む人はいちいちそこに深い意味を探さないほうがいい。ある伏線らしきものに出会い、以前の章で出てきたエピソードとの「関連」に悩んでしまうと、この小説は難解だ、ということになってしまう。街角の自動販売機のように百二十円を入れて好みのボタンを押したら必ず好みの缶コーヒーが出てくる、とはいかないことが多い。作者はこのことを「僕」の隣に住む一風変わった少女・笠原メイに面白おかしく言わせている。

 第三巻p261
 「さて私・笠原メイは思うのですが、世の中の人々の多くは人生とか世界というのは、基本的にシュビ一貫した場所であると考えているのではないでしょうか。なにかが起こると、それが社会的なことであっても個人的なことであっても、人はよく「つまりそれは、あれがこうだから、そうなったんだ」というようなことを口にして、多くの場合みんなも、「ああそうか、なるほど」と納得してしまうわけだけど、でも私にはそれがもうひとつよくわからないんです。
 「ちょうど電子レンジに「茶碗蒸しのもと」を入れて、チンとなったら茶碗蒸しができていたというのと同じで、全然何の説明にもなっていないんじゃないかしら。つまりそのスイッチとチンのあいだに「茶碗蒸しのもと」は、みんなの知らないあいだに、暗闇の中で一回マカロニグラタンに変身して、それからまたくるっと茶碗蒸しに戻っているのかもしれない。だのに、私たちは「茶碗蒸しのもと」を入れたんだからトウゼンノ結果として茶碗蒸しができたって思ってる。
「だけど私はむしろ「茶碗蒸しのもと」を入れてチンしたら、たまにマカロニグラタンが出てくる、なんていう方がほっとしちゃうのね。すくなくとも私の不良高校生のときはそんなことがかなりあったわね。」