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村上春樹 「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)2/2

 この小説は神話なのだから、ほぼニート状態の「僕」は「運命」に抵抗して「世界」の気に入らないことをいろいろやってしまう。そんなことができる。たとえば枯れ井戸の底にもぐってあれこれ考え事をしたりする。と、考え事をするだけで、「運命」は警告のために「僕」の頬に大きなあざを作ったりする。そんな過酷なことをする。
 いちばん大きな警告として、「僕」は、とても愛する妻・クミコが「男ができたから」という手紙を残して突然家を出てしまうという試練を与えられたのだった。愛する妻がなぜそのような考えられないことをするのか、「僕」は井戸の底の暗闇から、過去の自分たちの入力行動と現在の出力結果の関係に思いをめぐらすのだが、答えはもちろん何層もの闇に隠されてしまっていた。
 クミコは、「世界」のなかで最も呪われた男である実の兄・綿谷ノボルに軟禁されてしまっていた。綿谷ノボルは地位と権力が人間のすべてであるとする高級官僚の家に生まれたのだが、いまや東大経済学部教授を経て、新潟の伯父の地盤を引き継ぎ、実力若手衆議院議員に登りつめた男である。
 特異な眼力の強さと根拠不明のはっきりした物言いが評判になって、綿谷には有力メディアからの出演依頼がひきもきらない。勢いに乗った彼は「今日の世界における圧倒的な地域経済格差のもたらす暴力的な水圧は、政治的な力でいつまでも押さえつづけられるものではない。それはやがて世界構造に雪崩のような変化をもたらすだろう。・・・いまの混沌から次の世代の<共通プリンシプル>が再び形作られるまでには少し時間が必要とされるだろうが、“そのとき”はかならずわれわれに来るだろう・・・」といった、当選一回の陣笠議員では書けないヒトラーのような論文を有力雑誌に発表し続ける。そしてまたたく間に、次の次の首相は・・・と言われるまでになる。
 しかし綿谷ノボルは少年の時から自慰しかできない性的倒錯者なのだった。肉親に対しては倒錯ぶりがことに異常であり、高校生のときに自分の妹(クミコの姉)を何度も凌辱している。そのことでクミコの姉は自殺してしまっていた。
 クミコの姉への凌辱は精神的にも肉体的にも烈しいもので、クミコは幼い頃にその様子を直接間接に家の中で目撃していた。そのことが久美子の中に解き放ちがたいトラウマを植え付け、「僕」との結婚後も、そのことを僕に話すことはなかった。
 ノボルがいくら狂気でも、ノボルとクミコは兄妹なのだから、クミコは電話一本で簡単に誘い出されてしまう。そしてクミコは性的不能者ノボルのおもちゃにされたばかりでなく、知らない何人もの男たちとも、磁力に操られる鉄粉のように、性的興奮のない変態的交合を強制される。
 この綿谷ノボルは、『1Q84』で教団「さきがけ」を主宰していた(オウムの林泰男を想わせた)深田に転生する人間だろう。『1Q84』で、深田は実子・ふかえりと近親相姦していたし、それを許せない深田の母親「柳屋敷の老婦人」は「青豆」に大金を渡して息子・深田の暗殺を依頼する。その深田の母親自身は若い頃何人もの男と輻湊した関係を持ち、そのことが息子・深田に人格形成に影響を与えているのを悩んでいた。
 その「青豆」側の計画を察知した深田は、なんとも気味の悪い道化者のような刺客・牛河を差し向けるのだが、その男が同名で『ねじまき鳥・・・』にも登場するのである。「どこか遠くから伸びてくるものすごく長い手のようなものによって」というのは『ねじまき鳥・・・』第三巻p352にあるセンテンスだが、全く同じセンテンスが『1Q84』でも深田の「青豆」側への脅し文句として使われている。
 『ねじまき鳥・・・』は一九九二年から九五年にかけて書かれた。オウムの地下鉄サリン事件は九五年に起きた。当時は、社会の「大きな物語」が信じられなくなり、「何々主義イデオロギーの真っ赤な嘘」が暴露され尽くした時代だった。しかし、マスメディアなどは、自分自身が「大きな物語」の一部なのだから、「大きな物語」による「近代」が終焉してしまっていることを明確に認識できなかった。
 大きな歴史や、大きな政治や、大きな芸術が、ひとりひとりの非正規労働者には茶番でしかない以上、ひとりひとりは自分たちの「小さな物語」を、たとえば秋葉原サブカルチャー群の中に掘り出さなくてはならない。このような歴史上はじめて日本社会に現れた事態にオウム現象の遠因があることを書いた人は、当然ながら少なかった。
 だからこそ、『ねじまき鳥・・・』には残酷な人皮剥ぎのようなエピソードはいろいろ出てくるのだが、物語自体は旧約聖書のような、おおらかな、そのままでは理解の難しい、神話の形をとっている。
 オウムを経て、綿谷ノボルは『1Q84』の深田に「成長」し、『ねじまき鳥クロニクル』は「病的社会の犯罪」小説『1Q84』に展開していく。