アクセス数:アクセスカウンター

内田樹 「街場のアメリカ論」(文春文庫)1/2

 日本はなぜアメリカを選んだのか
 p10
 人々は自分たちのナショナル・アイデンティティを問うとき、かならず「・・・・にとって私たちは何者なのか」という「他者の視線」を措定する。他者の視線なくして「私」はありえない。化粧をするのも洋服を着るのもパスポートに写真を貼るのも、他者があるからである。
 日本のナショナル・アイデンティティはその意味で、ペリー以来この百五十年間、「アメリカにとって自分は何者であるのか?」という問いにほとんど取り憑かれてきた、といっていい。
 それは、ペリーの脅迫にあまりに卑屈に屈したために、戦争末期の指導者があまりに無能だったために、日本が「誇りある敗戦国民」というスタンスを取ることができなかったからである。その政治的、戦争戦略的赤貧ゆえに、日本人はアメリカを「まっすぐに見つめる」ことができなかったからである。だから、敗戦以後半世紀たっても「どうしてアメリカはこんなふうに非理性的に振る舞うのだろう」といった問いを、ついに発することができなかった。
 p12
 江戸時代までは、日本にとって「気になってしかたのない他者」は、周公の政治=華夷秩序の「虚の中心」としての中国であった。
 江戸幕府は寛永年間に鎖国体制を作り上げた。けれど、このとき、「気になってしかたのない」清帝国海禁政策をとっていなかった場合、幕府はそれでも鎖国を断行しただろうか。清がヨーロッパ諸国と広く貿易を展開し、めざましい近代化を遂げていた場合にも、日本は国内政局の安定だけを理由に鎖国を続けただろうか。
 わたしはそうは思わない。ナショナル・アイデンティティは 「気になる他者」があくまで自分と同一のカテゴリーに属していながら、なお「自分だけが保持するもの」があると思う場合のみに、担保される。アフリカやアラブ、イヌイットの人たちが「相手」の場合、日本人は自分のアイデンティティを気にしない。
 一九世紀、アヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱によって清朝は瓦解したが、そのとき日本人の多くは、何か根本的な制度改革をしないかぎり 「日本は清朝と同じ運命をたどる」 と確信した。それは、彼らが帝国主義列強の世界戦略に通じていたからではない(現に、ほとんど何も知らなかった)。そうではなくて、日本が「(天皇という)一点を除いて清国に似せること」を久しく国是としてきたことをようやく意識化したからである。
 それは、一八五○年代に、帝国主義列強の軍事的・外交的圧力に直面して、日本のナショナル・アイデンティティが脅かされたということではない。「ロール・モデルとしての清朝」の没落に際会して、自国のナショナル・アイデンティティをどう基礎づけたらいいか、分からなくなってしまったのだ。
 まさにそのとき、一八五三年にペリーの砲艦が浦賀に来航する。この瞬間に日本人は千年来の「ロール・モデル」であった中国を見限り、「これから自分を基礎づける他者」として、太平洋のかなたのアメリカと欧米列強を選んだのである。それらの国々と同一のカテゴリーに属することを国是として選んだのである。
 アメリカの不安
 アメリカが東アジアの政局にコミットできるのは、日中韓、これに加えて台湾、北朝鮮の五カ国の間に不協和音がある間だけのことである。戦争にならない程度の摩擦がこの五国を遠ざけており、トラブルがあるたびに「アメリカに中に入ってもらう」ことを要請されることが、アメリカにとってはベストの外交ポジションである。
 オバマ大統領が日本国首相の靖国参拝に厳重に抗議したら(アメリカにはその権利がある)、日本国首相はただちに参拝をやめるだろう。それがきっかけで、日中・日韓の歴史問題はうっかりするときれいに片付いてしまう。それはアメリカにとってさっぱり歓迎できない展開なのである。
 歴史学と系譜学
 p39
 私・内田は受験勉強有用論者である。仮に世界史なら、何年にどこで何があったという生データを覚えておくと、まことに面白い次のようなことにすぐ気づく。たとえばリンカーン奴隷解放宣言をしたときに、イギリスから「ある有名人」が祝電を送った。それは誰でしょう?
 答えはカール・マルクス。なのだが、リンカーンマルクスの間になんらかの関係がありえたのだろうかというような問いは、「歴史の大きな流れ」のみを書く歴史書だけを読んでいる人には決して浮ばない。アメリカ史と社会主義思想史をばらばらに勉強していると、二人が同時代人だったということは思いつかない。
 ゲティスバーグ演説は一八六三年、マルクス第一インターナショナルをロンドンで結成したのはその翌年だった。ちなみにマルクスは、一八三二年フランス二月革命のころ、パリを散歩する病身のショパンに何度も出会っている。
 p59
 歴史に「もしも」はない、とよく言われる。果たしてそうだろうか。それは「世界は今あるようになるべきだったのである」と言うのと同じではないだろうか。言い換えると今のあり方が最良の帰結であると言っていることではないだろうか。
 坂本龍馬が維新の直前に京都近江屋で横死しなければ、明治の日本は(龍馬が夢見た大統領制とは言わないまでも)随分ちがう統治形態を選んでいた可能性がある。しかし、こういう人間的ファクターの重要性をあえて看過して、誰がいて誰がやっても同じような政策が採択され、今ここにある日本になっていただろう、それが歴史の「流れ」だろうというのは、今ここにある日本のあり方が「あるべき姿」であると言明するのと同じことである。
 歴史に「もしも」はないと言って、可能性についての吟味を気楽に退けてしまっていいのだろうか。そういう過去の出来事についての決め付けは、未来の出来事についての想像力も封殺してしまうにちがいない。