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内田 樹 「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」(講談社文庫)1/2

 学びからの逃走
 p10
 憲法には国民は「勤労の権利を有し、義務を負う」定めている。おそらくほとんどの人は、労働が「権利および義務」とされている理由について考えたことはないだろう。「仕事をするかしないか、それは私が自己決定することだ。法律でがたがた言われたくないね」と思っているはずである。
 しかしそれが憲法に規定されているというのは「労働は私事ではない」からである。労働は共同体の存立にかかわる公共的な行為なのである。自己決定したりしなかったりできるものではないのだ。
 p39-43
 このごろは、小学一年生に教室でひらがなを教えようとすると、「先生、これは何の役に立つのですか?」と訊いてくることがあるという。いま三十歳を超えた人が小学生の頃は、そんなラディカルな質問をする人はいなかった。いまの子供たちは「学ぶことは何の役に立つのか」と、ある意味で非常にビジネスライクなことを訊いてくる。
 この問いには、確かに一理ある。子供にとって四、五十分間、じっと座って先生に話を聞いて、ノートを取るというのは「苦役」なのだから。
 そのような問いに対して、教師は答えることができない。できるはずがない。できなくて当然である。そんな問いが子供の側から出てくるはずがない、というのがつい二十年前までは教育制度の大前提だったからだ。
 しかしいま、現実に、経済合理性を動機付けにして、子供を学習に導こうとする大人たちがいる。勉強すると「いい学校」に入れるし、「尊敬されるポスト」に就けるし、「高い給料」が取れるし、という言い方で子供たちを功利的に誘導しようとする。教師たちも親たちも、ほとんどがそういう説明に逃げてしまう。
 このような「想定外」の質問に、内心おろおろしながら無内容な答えをすることは最悪である。「いい学校」、「高い給料」、「尊敬されるポスト」といわれても、小学一年生には実体を理解できるわけがありません。むしろ幼い知性は、「自分の出した質問で先生がおろおろしている」ということを、小学一年生なりに理解してしまう。これこそ両方にとって不幸なことである。
 p54
 コンビニでは、お金を出せば、買い手が四歳の幼児であろうと、二十歳の青年であろうと、八十歳の老人であろうと、同一の商品やサービスと交換される。四歳の幼児にとっては、少なくともコンビニという場所を知ってしばらくの間は、驚嘆すべき経験のはずである。社会的には何もできない自分が「子供扱いされない」のだから。
 お金を使う人間として立ち現れる場合には、その人の年齢や識見や社会的能力などは基本的に誰もカウントしない、・・・・・潤沢なおこづかいを手にして消費主体としてコンビニやおもちゃ屋に登場したとき、彼らが最初に感じたのは<法外な全能感>だったろう。
 先進国日本の子供たちはこの<全能感>にすぐに慣れてしまった。まわりの遊び友達がみんな同じ経験をするのだから、あっという間に「買い物をする子供」は「売ろうとする大人」より偉いんだ、少なくとも対等なんだとの感覚になっただろう。先ほどの、ひらがなを教えようとする先生に、「これは何の役に立つのですか?」と訊いてくる小学一年生は、このスタンスをとって学校に来ている。
 p89
 ある国立大学で集中講義をしたときに、その大学の新聞部の学生からインタビューを受けた。「現代思想を学ぶことの有用性は何ですか」という内容だった。
 その問いを発した学生は、私の答えに納得できなければ「学ばないよ」と宣言したわけである。ある学術分野が学ぶに値するか否かの決定権は自分に属しているということを、問いを通じて表明しているのだ。彼としてはもちろん無意識にだが。私はこの傲慢さと無知にはほとんど感動した。
 二十歳の学生の手持ちの度量衡では計量できないものが、世の中には無限に存在する。彼は愛用の三十センチの物指しで、すべてのものを測ろうとしている子供に似ている。その物指しでは測れない、たとえば重さとか、弾力とか、明るさとか、放射線量とかを測れる度量衡を持たず、愛用の三十センチの物指しで世界のすべてが計量できると信じている子供に、どうやって教えることができるだろうか。
 p74-5
 母語の習得を、私たちは自分の意識がない段階から開始する。場合によっては胎内にいるときにすでに、母や父は子供に話しかける。私たちは現にそうやって日本語を習得したのだが、母語の学習を始めたときには、これから何を学ぶかということを知らなかった。功利的な計算をした上で母語を習得しようとする子供はいない。
 文字も算数も音楽も同じだ。自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機付けている。だから何も知るはずのない子供が学習の主権的で自由な主体であるわけがない。