アクセス数:アクセスカウンター

内田 樹 「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」(講談社文庫)2/2

 リスク社会の弱者たち
 p117
 私たちはいまリスク社会に投じられている。そしてこの社会では、失業も、ホームレスになるのも、病気になるのも、そのような生き方を選んでしまった自分の責任である、したがってリスクヘッジ(対処・救済)も自分でしなさいとのアナウンスが、かなり強力である。
 強力であるという意味は、TVや新聞に自分の言説を乗せることのできる強力な人たちが、ソフトな口調で自己責任論にかかわる恫喝的な発言を行っているということである。
 しかしこのアナウンスには無理がある。世界中どこでも、もちろん日本でも、「成功者」といわれる強力な人の多くは、リスクをとるのも、リスクに対処するのも、一族などの連合体で当たってきたからである。

 極端で申し訳ないが、ユダヤロスチャイルド財閥の創始者は五人の息子にヨーロッパの四都市で銀行を開業させた。以後二百年の間にフランクフルト本店とナポリ支店は廃業、ウィーン支店はナチによって閉鎖される災難に遭った。しかし連合体としての一族は、ロンドン支店とパリ支店がナポレオン戦争と二度の大戦を生き抜き、ロスチャイルドの名を現在に伝えている。
 ロスチャイルド家の繁栄の歴史は、リスクヘッジとは集団として生き残るための関係者の合意に基づく整然とした行動であるという、リスク社会の教科書のような事例である。日本でいま流行の自己責任論は、小さなロスチャイルドとして「銀の匙をくわえて生まれてきた」強者連合階層だけに適用できるものなのだ。
 いま「未婚化・非婚化」と言われているが、現実には高学歴・高収入の人たちの結婚率は低くはない。離婚率、未婚率は、学歴と収入が下がるにつれて上っていく。つまり社会的弱者たちほど、老人になったり、病気になったりしても親しく支援してくれる人がいなくなる。弱者は自分のリスクをヘッジしてくれるような共同体を作ることを禁じられている・・・・・・、日本の社会はイデオロギー的にも実践的にもそうなりつつある(p239)。
 p134
 人には誰でも自尊心があるし、自信をもった生き方をしたい。大人でも子供でも、それは変わらない。欧米でも日本でも中国でも、それは変わらない。そして、どの社会でも、上層では「文化資本(いわゆる教養)には差別化機能がある」と信じられているから、上層の子供たちは進んで文化資本を身につけようとする。
 ところが社会下層では、「文化資本には差別化機能がない」という考え方が受け容れられやすい。カネやモノと違って、文化資本(いわゆる教養)は外側から見えにくいことを特徴とするから、社会下層が自分には見えない文化資本をバカにするのは理の当然だからだ。見えないものは、見ることを学びの場で強制されなければ見えてこない。
 どの社会でも、子供は自分の親が属する集団のイデオロギーに過剰適応してしまう可能性がある。そうすることで、子供たちは同じ集団の大人たちの評価を期待できるからである。そのようにして、上層の子供たちが家庭でも学校でも文化資本を染まろうとする一方で、
下層の子供たちはむしろ積極的に文化資本を拒否することになり、わずかな世代交代のあいだに、それぞれの階層は急速に閉鎖的になる。
 p136
 ナイーブに「自己の称揚」を続ける若者が数多くいる。彼らは「自分らしい生き方」を求めて社会の「常識」に逆らい、きっぱりと「自分らしさ」を実現していると主張するが、その彼らの言葉づかいや服装や価値観のあまりの定型性には驚くべきものがある。これこそ「階層に特徴づけられた社会構造の規則性に個人を従わせるイデオロギーの作用」の圧倒的な影響でなくて何だろうか。
 労働からの逃走
 p143
 日本人の語る自己決定論は、「自己決定するのはいいことである」という社会的合意が政府主導で形成されつつあり、「それはどうかなあ」という意見が圧殺されているという点で、あきらかに倒錯している。政府主導の世論形成に対して「それはどうかなあ」と異議を申し立てる人が自立した人であり、自己決定できる人だとは、だれも考えない。
 いわば「みんな自己決定する時代なんだから、君もみんなと同じように自己決定しなさい」と政府・世論は命令しているわけである。「自己称揚」する若者はナイーブだから、この命令のありようそのものが論理的に破綻していることに気がつかない、ということなのだろうか。日本型ニートはこういう文脈で生まれてきた、最強のナイーブ社会集団なのだろうか。
 p162
 若いサラリーマンは、「給料が安すぎる」という愚痴を絶望的な口調で語る。しかし、労働に対して賃金が安いのは、原理的には当たり前のことである。
 企業は利潤をあげなければならない。そうでないと、株主に少しの配当もできないし、新しい設備への投資も、新製品の研究開発もできない。これらの企業活動の原資はすべて労働者から「収奪」した労働価値によってまかなわざるをえない。労働者は、自分が創出した労働価値よりも少ない賃金しか受け取れないのは経済のイロハである。べつに資本主義の「本性的な悪」とかナントカということではない。世の中で働くとはそういうことである。
 p169−71
 ニート問題について専門家たちは、いろいろな対応策を提言している。「逆年金」システムで若いニートの生活支援をしようとか、職業訓練の機会を増やそうとか、きめ細かなカウンセリングをしたらどうかとか・・・・、私はどれも効果がないだろうと思う。ニートは、働くことが不合理だと考えているからニートを続けているのであって、この根本の問題を見過ごしているかぎり、事態を悪化させるだけである。
 ニートに「あなたは労働しなければならない」と告げても、「どうして?わたしにとってそれが何の役に立つの?」と問いかけてくるだろう。小学生が「先生、理科は何の役に立つのですか?」と訊いてくるのとまったく同じである。
 彼ら自身の価値判断基準に照らして「有用である」と判断されれば、「仕事をしてもいい」と答えるかもしれないが、そのとき彼らが「有用・無用」の判断に際して準拠するのは、財貨や愉悦や威信や社会的知名度といった 「子供にもわかる価値」 にほかならない。
 そういう意味で、元ライブドア堀江貴文氏が一時期、ニートを含む若者に圧倒的に人気を博したのは不思議な現象でも何でもない。堀江氏が「最も少ない労働で最も多くの利益を出すこと」を最高善であると宣言し、かつそれを 「子供にもわかるように」 実践したからである。ただいま刑務所の中にいる堀江氏は『獄中日記』なるものを週刊誌に連載中で、身体も価値観もすこぶる元気のようだ。