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オリヴァー・サックス 「妻を帽子とまちがえた男」(早川書房)3/3

 プルースト的なるもの
 p269-72
 人間には「内なる旋律」や「内なる場面」がある。つまり心と記憶に「プルースト的なもの」がある。てんかん患者には発作時に追想が起きやすい人がいるが、その患者の大脳皮質の特定場所を刺激すると、たちどころにそういう「秘められていた記憶」の喚起が生じる。脳内のどの器官がこれに関与しているのだろうか。
 脳の情報処理や再生についての現在の考え方は、すべて基本的には数学的・分析的である。脳の働きの解明に「スキーマ(体系)」「プログラム」「アルゴリズム」といった観念が用いられるのはそのためである。
 だが「スキーマ」「プログラム」や「アルゴリズム」で患者の豊かな幻覚、われわれ人間の経験が持つ視覚的、劇的、音楽的な面まで説明できるだろうか。「経験」を成り立たせている内面的な特質までも説明できるだろうか。
 あきらかにそれは不可能である。数学的・分析的なものをいくら高度に積み上げたところで、それだけでは「経験」を成り立たせる「図像的な表現」には決してなりえない。そして、経験も行為も図像的にまとめられなければ経験や行為とは言えない。
 脳にとどめられたすべての物についての記録は図像的なものにちがいない。これが脳における記録の最終的なかたちである、たとえそこへ行くまでの予備段階で数学的・分析的なかたちをとったとしても。脳における表現の最終的な形は「アート」である、あるいは「アートを容認する」といってもいい。すなわち「経験」や「行為」は「場面」や「旋律」となって表現されるしかないのである。
 p326
 したがって、たとえば詩的才能がありながら一般には知的障害者と呼ばれる人たちに対しておこなう、数学的・分析的なアプローチや評価はとほうもなく不適切である。それらは欠陥を見つけるだけで、その人に内在する力が自然に進行させている能力を見いだそうとはしないのだ。
 p332
 詩と音楽と演劇に才能を見せる患者レベッカには体系的構造が欠けていた。だから、物語的情緒的な要素にあたる世界が与えられなければ、レベッカバラバラになってしまったことだろう。
 知的障害といわれる彼女は病院内の特別の演劇グループに入ったが、演劇によってレベッカは統一のとれた人間になることができた。台詞はよどみなく、落ち着きもあり、自分のスタイルを持っていた。現在舞台に出ているレベッカを見たら、彼女が知的障害だとは誰も想像できないだろう。
 p355-8
 双子の兄弟患者ジョンとマイケルにある年のある日のことを口にすると、二人の眼は一瞬くるくると動いて一箇所に止まる。すると平板で単調な声で、その日の天気と、その日報道された政治的事件と、二人の身の上に起こった出来事がよどみなく告げられる。
 その出来事の中には往々にして、幼年時代のつらい思い出や人から受けたあざけりも当然含まれているはずなのに、ふたりはなんとも一様で変化のない調子で語る。抑揚もなければ感情も少しも入っていない調子で。あきらかに彼らの記憶はただ事実の記録に過ぎず、パーソナルなものとも心情的なものともかかわり合いがなく、中心に生身の人間がいることをまったく感じさせない。
 しかし、ジョンとマイケルに三百桁の数字だの、過去四十年間の事件だのをどうして保持しているのかと聞くと、彼らはさらりと「見るだけなんです」と答える。どうやら「見る」ことが、この不思議を解く鍵のように思われる。異常な集中力を発揮し、広大な範囲にわたり、寸分たがわぬ厳密さを必要とする「視覚化」を彼らは行っているらしい。
 彼らには「数」が“見えて”いるのである。概念として抽象的に理解するのでなく、はるかに具体的に、直接的に、感覚的に「モノ=実体」としてとらえているのである。五分で十二桁の、一時間で二十桁の素数を見つけ出せる彼らには。
 p376
 スケッチにすばらしい才能を持った患者ナディアは、「スケッチ以外」の面でも能力が最大限に発揮されるような道を見いだすべく、否応なく「治療」体制に従わさせられた。その結果はどうだったか。ものをしゃべるようにはなったけれど、スケッチはぴたりとやめてしまった。
 かくして天才少女から天才が取り除かれて終わった。後に何も残らなかった。ただ一つのすぐれた点はなくなり、どこをとっても人並み以下の欠陥ばかりの人間が残った。こんな奇妙な治療法を考えつくとは、われわれはどういう人間なのか。