アクセス数:アクセスカウンター

加藤典洋 「日本の無思想」(平凡社新書)1/2

 タテマエとホンネという言葉が、ここ半世紀のとても新しいものであることはこの本で初めて知った。(対概念をあらわすものとしては久野収『日本の超国家主義』1956年に初出らしい。)だから戦前には、大臣が「微妙な問題に触れてついホンネをもらして」前言撤回し、「反省」したあげく辞任するという茶番はほとんどなかった。そしてこの対概念の底には、第二次大戦でのアメリカに対する「完全屈服」によるニヒリズムがあるというのが、この本の主題である。
 著者自身、「自分の書くものは晦渋であるとされている」と言っているが、その晦渋さが文章作法上の難点によるものがかなりあることは措くとしても、その難点を意識せずにすむほど、私が知らなかった事実をたくさん教えられた。すくなくとも本書の前半部は。 後半部は、福沢諭吉「痩我慢の説」だけは、 (養老孟司風に言うと) 「この著者の脳は変わった動き方をするなあ」と思わずに読むことができた。

 p14
 日本語のネイティブスピーカーはタテマエとホンネという言葉にうさんくささを感じます。少し古い辞書を引くと、「建前=表向きだけの方針・原則」とあり、「本音=本心から出た言葉」とありますが、新しい辞書では (「建前」はそのままですが、) 「本音=口に出しては言わない本心」と変化しています。タテマエとホンネがうさんくさいのは、「タテマエが嘘だから」ではないのです。「ホンネが本当じゃないから」なのです。
 p16・35
 1994年、永野法務大臣毎日新聞の記者に「南京事件はでっち上げだ」といいました。そしてこの発言が国際的に問題になり、非難の声が高まると永野氏はこの後すぐに前言撤回して、辞任してしまいました。・・・・・・・
 このとき朝日新聞は社説に次のように書きました。
「永野法務大臣の“南京事件でっち上げ”発言は驚くべき歴史認識といわざるをえない。法務大臣という筆頭閣僚の重責を担う人物が、このような考えの持ち主だということは、発言の撤回で消えるものではない。」
 じつは、この社説に、タテマエとホンネに関する朝日の記者の考えがよく表われています。なぜ法相ともあろうものが発言した内容は、前言を撤回しても消えないのでしょう。それは、社説の書き手自身が前言撤回や辞任は永野氏の心からのものではない、いわばタテマエ上のことで、彼のホンネは変わっていないと、考えているからです。すなわち、朝日新聞の社説は、タテマエとホンネという考え方自身を認めてしまっているわけです。
 このことは、社説の書き手、つまりマスメディア自体、ひいては日本人全体が、「ホンネ=失言、タテマエ=前言撤回」という構図を、「妥当な考え方」として位置づけているということをあらわしています。つまり、この社説は前言撤回などタテマエに過ぎないと、無意識のうちにみなすことで、法務大臣を非難しながら、もっと大きな「嘘をつく政治的人間」としての法務大臣ニヒリズムを支えてしまっているのです。
 p63−75
 タテマエはもちろん真ではなく、ホンネも真ではありません。でも僕たちはそのことに気づかない。自分たちは信念を持っているし、本心ももっていると思っています。僕たちにはもう、信念とか本心とかの感触が忘れられていて、そのことをさえ、政治家を含め、僕たちは忘れてしまっているみたいなのです。・・・・・・・・・・。
 ではなぜ、失言閣僚たちは、また日本の社会は、本心の感覚、信義の感覚を失っているのでしょうか。