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福岡伸一 「もう牛を食べても安心か」(文春新書)2/2

 臓器移植という蛮行
 p103
 生命の連鎖は食物由来情報の絶え間ない解体とその再構成の流れによる平衡状態である、という考え方をさらに敷衍していくと、臓器移植という考え方は生物学的には非常な蛮行であることになる。なぜなら、臓器移植とは別の人間の肉体の一部をまるごと自分の体内に取り入れることだからだ。
 しかも消化などの情報解体プロセスを一切経ることなくそうするのだから、極言すれば臓器移植は究極のカニバリズムでもある。臓器を提供してくれた他人に宿るすべての 「カルマ(宿業)」 を引き受ける覚悟がなくてはできない行為ではなかろうか。

 信号の流路パターンが「記憶」である
 p140-3
 細胞の構成物質がわずか数日のうちに全て入れ替わるという、ルドルフ・シェーンハイマーが発見した動的平衡の掟は、体内すべての細胞に平等である。この掟からからいって、記憶という現象を脳細胞の分子レベルの「物質」に対応させることはできない。したがって、脳細胞―神経ネットワークの個々の物質的構成要素は入れ替わり立ち代わっても、全体として情報を保てるような、分子よりも上位の 「構造」 が記憶を保持していると考えざるを得ない。
 上位の構造とは、細胞のネットワークの中を駆けめぐる電気信号の流路パターンである。記憶とは、一言でいえば、ある特別な体験に際して、その電気信号の流路パターンが保持されたものだということだ。体験とは、知覚入力(五感)とそれに対する応答(感情の動きや身体症状)のセットであるといえる。
 だから、記憶がよみがえるというのは、保持されていたある特定の流路パターンに対して、時間が経過したあとでも、その流路のどこかにシグナルが入れば  流路パターンに再び電気が流れて、そのパターンに付随する反応がひきおこされる、ということになる。これが何かの“きっかけ”で「思い出す」ということなのだ。・・・・・・・・・・・

 記憶は、神経細胞の連結によって形成される回路のパターンとして保存される。つまり、分子の上位に位置する 「構造」 によって記憶が担保される。そうならば、神経細胞や、その連結部位であるシナプスを構成する分子群が絶え間ない動的平衡によって回転代謝されて行っても、全体として同じ構造を保持し続けることができる。・・・・・・・・・・
 とはいえ、全体としては同じ構造を保っていても、まれに隣り合う場所の複数の分子群が一度に代謝されたり、その場所にほんの少しかたちが違う分子群が入り込んだりするという微小な変化は、大きな動的平衡システムの中では、おのずと起こりうる。
 記憶という絵柄を保持している一定の神経回路の分子群も、繰り返し電気信号が流通することによって変遷が少しずつ起こり、長い時間を経る間には、大きな変化ではないにしろ図柄の変更というものが連続的なされることがあるだろう。そして私たちの「表層意識」は、その都度その都度、変化を受けたものしか認識できないのだから(変化の前後を比べる手段がないのだから)、変化を変化と感じることができない。
 思い出の場所についての、子供のときの記憶と大人になって再訪したときの印象の大きな違い、あるいはよくいわれる記憶の美化というもの、・・・・・・・・そのような記憶の変容は、記憶を保持している分子基盤の、時間による変容そのものであるといえる。