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奥泉 光 「虫樹音楽集」(集英社)

 毎日新聞年末恒例の「2012年の3冊」という、十人ほどの書評家が各自で選んだ「自分にとっての今年のベスト3冊」のうちの一冊。まず『虫樹音楽集』のタイトルが異様だった。読み方さえ分からなかった。虫と木と音楽がどう結びつくのか・・・・・奥泉 光という作家名すら知らなかった。
 目次を開くと、第一章が『川辺のザムザ』。第二章は『地中のザムザとは何者?』。 およそ小説の世界でザムザといえば、カフカ『変身』のザムザしかないだろう。 ・・・・とまでは推量できた。 
 小説自体のプロットは渡辺柾一という、六○年代後半から九○年ころまでジャズシーンに生きた、最後はとても奇妙な形でマゾヒスティックに狂い死にしたテナーサックス奏者の 「変身」 譚である。
 カフカのあの「変身」、人間が虫になる、何の理由もなく等身大の虫になるという、原稿を友人らに読んで聞かせたカフカがげらげら笑い転げたらしい「変身」譚の現代日本でのヴァリアントが、二百五十ページにわたって面白おかしく、きわめてグロテスクな描写もときどきまじえて語られる。
 著者へのリスペクトとして「虫と楽器」を例えに使うと、ジャズの演奏中にコントラバスが縦に割れて中からチェロが現れ、チェロが割れると巨大なカブトムシが出てきて、カブトムシがまた縦に割れると今度は二本のテナーサックスが左右対称に入っている・・・・・、ような構造を持った小説である。
そのテナーサックスが INDIFFERENCE――無関心・冷淡・無差別――を百二十%のコンセプトにして七○年代、八○年代の聴衆を <共時性シンクロニシティー> の世界に引きずりこんで行く・・・・・・・・。
 「等身大の虫が出すともいえる、虫が割れてできたテナーサックスが出すともいえる 「音」 は人間の耳には聴こえない。それは窓辺にたたずむ日本のザムザ=渡辺柾一にだけ聴こえる、宇宙に向かって放たれる音である。ザムザは INDIFFERENCE の音楽を奏でるために虫となったのだ」と、そんなことを一言も書いていないカフカに代わって、作者は言う。
 この作品は全体で九章あるのだが、そして各章で同じような「事件」が語られることもあるのだが、それが章ごとにまったく違った断面を見せるつくりになっている。ウィキペディアで「奥泉光は物語の中で次第に謎の位相をずらしていき、虚実のあわいに読者を落とし込む、といった手法を得意としている」と紹介されているが、私はサスペンスには疎い読者なので、最初の数章はまんま騙され、悩まされてしまった。
 p260 奥泉光が「素になって」書いた一節。
 思えば七○年代、ジャズを起点としたものに限っても、演劇や舞踏の手法を取り入れつつ観客の理解を容易には寄せ付けぬ挑発的パフォーマンスは様々あった。たとえ渡辺柾一らのパフォーマンスがどれほど狂的であろうと、「逸脱」をその本質に据えたジャズ、とりわけフリージャズという音楽が、進化した果ての何かだとは言えるだろう。
 六○年代、七○年代のアートは総じて、人間の変革という主題を根本に持っていた。・・・・・・人間の思考や感覚が変わらぬかぎり革命はありえない。人間がその限界を超え出、可能性をぎりぎりの極限まで押し広げる、その果てに、あるとすれば革命はありうるだろう。ジャズ的逸脱はそうした感性の革命の一方法であった。 「変革」のパトスが支配するなかで、だからあらゆる逸脱は正しかった。