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マックス・ウェーバー 「古代ユダヤ教」(岩波文庫・中)3/3

 知識人であるユダヤ祭司たちは、怪物や竜が暴れまわる天地創造譚を嫌悪した 
 p536
 魔術は、他の古代世界では大きな地位勢力を持っていたが、イスラエルではそうではなかった。イスラエルにもあらゆる魔術師がいたが、指導的なヤァウェ主義サークルのレビびとは決して魔術師ではなく、むしろ知識の担い手だった。インドのバラモン祭司もまた知識の担い手だったが、レビびとたちは 「何が善であるかは神によってすでに述べられている、神の命令を守り、愛を行い、神の前に謙虚であることである」 として、奥義的でない倫理と愛の知識を教えた。
 それまでの古い時代は、神的カリスマを戦争エクスタシスや戦争予言としてしか知らなかった。これにたいして、すでに非軍事化されつつあったヤァウェの平民たちや多くの知識人の間では、この二つのものは没落しつつあった。捕囚期を前に「王と秘儀・魔術」の時代は「平民が理解できる狂躁ならぬ知」の時代へ移っていた。
 p549
 中国の場合には高貴、審美的にして礼節のある文識者扶持社会層が重要であったのに対し、イスラエルでは都市と地方の平民社会層が合理的宗教倫理の担い手となった。 インド人の仕方における「現世の意味」に関する思弁の発展は、世界像の合理化に向かって進むユダヤの精神地盤では完全に排除された。 つまりヤァウェは政治的運命の神であり続け、人々が瞑想によって神秘的合一を遂げるような神では全くなかったのだ。
 p553
 創世記のアダムとイヴは農耕者であり、エデンの園アルメニアの山々からの豊かな水で灌漑されている。このことから判断すると、創世記に出てくる神話は、元来ステップやパレスティナの獣や化物が跋扈する荒涼たる山地に由来するものではないことが分かる。(金森修『ゴーレムの生命論』によれば、アダムという名前は<アダマ=(川縁などにある)土塊>から来ている。)
 当時のバビロニアでもカナンでも、天地創造の神は龍とか怪物とかと格闘せねばならず、バビロニア天地創造碑文は詩文体で飾られているのだが、旧約創世記第一章の天地創造説のすこぶる素朴な散文体はこれとまったく対立している。この事実は、バビロン捕囚期に作られた旧約創世記が、民族誌的な口承に基づくのではなく、官僚・書記官的な祭司たちの文筆作品であることを示している。
 バビロニア天地創造神話にあふれていた一切の幻影、龍を引き裂くという表象は旧約創世記では削除され、恐ろしい怪物は非人格化されてただの原始の闇とされた。そして創造は神の単なる「ことば」によって生じ、このことばが光を発せしめるのであるが、それはヤァウェ教師の口から発せられる「ことば」にほかならないのである。
 なにか文学的空想を刺激するような礼拝とか、狂躁道や魔法から生じるような礼拝とか、要するに他の神話体系の通常の源泉である礼拝のあり方は、神の行動を冷静に合理的に方向づけるイスラエルの教養社会層には耐えられなかったのだ。
 p576
 十戒は、比較的のちの時代のレビびとが編集したものである。隣人の家に関する裁判証言の話、ヤァウェの名の乱用への嫌悪、殺人の一般的禁止などは後代のイスラエルの社会慣習とタブーを表現したものである。このことから、十戒は知識人たちによって仕上げられた一つの超宗派的倫理を定式化したものであるといえる。
 p585-7
 エジプトやバビロニアから「罪のカタログ」が遺されているが、「罪のカタログ」とは病気や不幸に際して、何か犯したかもしれない罪を祭司が問うときのリスト表である。これに似たことがイスラエルでも行われた。
 この罪のカタログを裏返せば、十戒が示すような神の命令のリストができあがる。このことから被圧迫層の間にトーラーの愛好が生じた。トーラーを教授するレビびとには、魂の「謙譲の美徳」を見取る能力が欠かせぬとされ、レビびと祭司の間には「高慢なもの」に対する怒りという思想が生じた。そうして次第にレビびとは権力の地位を獲得していった。(594)