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内田 樹 「寝ながら学べる構造主義」(文春新書)2/2

 レヴィ=ストロース  かくしてサルトルは一刀両断にされた
 p144-150
 私たちはみな固有の歴史的状況に「投げ込まれて」います。例えば私は日本人ですので、そのことだけを理由に旧植民地の人から「戦争責任」を追及されることがあります。 「私は知らない、私はそのとき生まれていない、私は中立がいい」 と泣き言を言って責任を逃れることは、私には許されていない、とある思想的立場の人は言います。これがサルトルの「アンガージュマン(歴史参加)」という事態です。みなさんよくご存じの話です。
 1952年のサルトルカミュ論争(邦訳書『革命か反抗か』)で、サルトルは「歴史の名において」、カミュを告発しました。サルトルによれば、 レジスタンスの伝説的闘士として戦後フランスの知的世界に君臨したカミュが、1945年に「私は誰にも拘束されたくない」と書いたとき、それは歴史的に「正解」の主張だった。しかし歴史的条件が激変した7年後つまり1952年のフランスにおいては、別の答えが「正解」になったのだと、サルトルは言います。
 レジスタンスを領導したときのカミュは歴史的に正しかったが、同じ立場にとどまって第三世界解放闘争への全面コミットをためらうカミュは歴史的に誤っている。 サルトルはそう書きました。「君が君自身であり続けたいのなら、君は変化しなくてはならない。しかし君は変化することを恐れた。」サルトルはこう言って、すでに神格化されつつあったかつての盟友に思想家としての死を宣告しました。 『革命か反抗か』を一読すれば、カミュの論理展開上の劣勢は明らかです。以後しばらくフランス論壇は「コミュニストサルトルに占領されたも同然の状態になり、カミュは孤立を余儀なくされてしまいました。
 カミュ批判にあたり、サルトルは、実存主義哲学者として一度は排除した「神の視点」を、今度は「進歩すべき歴史」と名を変えて、裏口から導き入れた格好になりました。 コミュニストサルトルとしては当然の手法でしたが、一九六二年にレヴィ=ストロースが咎めたのはこの点です。

 「主体は与えられた状況の中での決断を通じて自己形成を果たす」 という前段について、実存主義構造主義はどこが違うわけでもありません。しかし、実存的状況の中で主体はつねに「政治的に正しい」選択を行うべきであり、その「政治的正しさ」はマルクス主義的な歴史認識が保証する、という後段に至って、構造主義実存主義と袂を分つことになります。
 レヴィ=ストロースの『野生の思考』はいわゆる「未開人」が世界をどのように経験し、どのように秩序付け、記述しているかを考察したものです。 浩瀚なフィールドワークに裏付けられたその書物の結論は、 「文明人の思考」と「未開人の思考」 は、発展段階の差ではなく、そもそも 「別の思考」なのであり、比較して優越を論じること自体無意味である、ということでした。
 レヴィ=ストロースは、あらゆる文明が 「おのれの思考の客観性を過大評価する傾向にある」 ことを厳にいさめます。つまり、私たちは全員が、自分の見ている世界だけが「客観的にリアルな世界」であって、他人の見ている世界は「主観的でゆがめられた世界」であると思って、他人を見下しているのです。 自分が「文明人」であり、世界の成り立ちについて「客観的」な視点にいると思い込む人間ほど、この誤りを冒しがちであるとして、サルトルの「神の視点」のような歴史概念に異を唱えました。

 レヴィ=ストロースの筆誅は次のように激しいものです。
 「人間性のすべては、人間のとりうるさまざまな歴史的あるいは、地理的な存在様態のうちただ一つのものに集約されるべきであると信じ込むためには、かなりの自己中心主義と愚鈍さが必要だろう。
 「サルトルが世界と人間に向けているまなざしは、 『閉じられた社会』 とこれまで呼ばれてきたものに固有の狭隘さを示している。
 「サルトルの哲学のうちには、野生の思考の多くの特徴が見いだされる。それゆえに、サルトルには野生の思考を査定する資格はないと、私たちには思われる。 逆に、民族学者にとって、サルトルの哲学は第一級の民族誌的資料である。 私たちの現代の神話がどのようなものかを知りたければ、これを研究するのが不可欠であろう」・・・・・・・・・・・。
 この1962年の一冊の書物が、戦後のあらゆる論争を勝ち続けてきた「常勝」サルトルを一刀両断にしました。 こうして実存主義の時代はいかにも唐突に終わったのでした。
 ちなみに、ですが、1942年の段階で、対ナチレジスタンスに参加していたのは、全フランスでわずか二千人でした。 カミュはその最初期の、レジスタンスが孤立して危険きわまりなかった時期からの寡黙な闘士の一人でした。 それが数十万人に膨れ上がったのは、ノルマンディー上陸作戦の成功後、「勝ち馬に乗ろう」 とした多くの人々がいたからです。
 解放のときが来て、この青年アルベール・カミュが、地下出版の『コンバ』を通じて占領下フランスの知的・倫理的高みを支え続けた伝説的なレジスタンス闘士と同一人物であることが知られました。 アルベールの『シーシュポスの神話』を若書きであると笑っていた人々は、あおざめて口をつぐみました。 フランスの倫理的な体面を保ったという点で、カミュ以上の貢献を果たした哲学者を同時代に探すことはほとんど不可能です。
 サルトルは、占領下のパリでいっしょに飲み歩いていた、ダンスのうまい青年作家が地下活動の英雄であったことを、パリ解放のときまで知らなかったということです。(『昭和のエートス』p287)