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白川 静 「孔子伝」(中公文庫)2/2

p80-1
 氏族の生活を左右する重要な農耕儀礼として、古くはさかんに行われたものに雨請いがある。フレーザーの『金枝篇』には、未開社会における請雨儀礼が多くしるされているが、特に王がその犠牲としてささげられる「殺される王」の例が、数多く集められている。
 ・・・・・中国にも殷王朝の始祖とされる湯王にその説話があり、九年も続いた大旱魃のとき湯王は自ら犠牲となって雨を祈った。髪を切り、爪を絶ち、積薪の上に座して自分を焚殺させたのである。殷の子孫である古代・宋の国では、孔子の時代になっても王が巫祝王としてそのことに当たった・・・・・。
 春秋期になっても焚巫の風はさかんであったが、当時の賢者とされる人々はこの惨たらしい方法に反対した。次第に、王の代わりに男巫である巫祝が焚かれるようになっていった。そのとき焚巫に用いられる者はたいてい巫祝のなかの異常者であった。わが国の一つ目や一本足の妖怪が、そういう古代の人身御供から生まれた話であるように、中国では侏儒(小人)などがそれに使われたのである。
 儒はおそらく、もとは雨請いに犠牲とされる巫祝をいう語であったと思われる。その語が後に一般化されて、巫祝中の特定者を儒と呼んだのであろう。だからそれはもともと、巫祝のうちでも下層者であったはずである。孔子が生まれたのはこの階層であった。父の名などはもとより伝えられていない。
 p207-9
 儒家に対する厳しい批判者とされる荘子は、その精神的系譜からいえば、むしろ孔子晩年の思想の直系者であり、孟子は正統外の人である。
 荘子の生きた時代は孟子と近く、その地も孟子の遊歴したところとそれほど遠くない。しかし『荘子』には孟子に言及するところがなく、実際に会ったこともないようである。 
 仮に会ったとしても、孟子孔子を堯舜以来の大聖人と宣伝し、みずからその徒として行動し、後車数十乗、従者数百人、貴族のような豪勢さで遊説しているその姿は、荘子には耐え難い醜悪なものと映ったであろう。孟子はみずからを「孔子に私淑するもの」と称したが、私淑という点では、むしろ荘子の方が深いのではなかろうか。
 毛沢東文化大革命を二度にわたる自己批判で生き抜いた郭 沫若氏は荘子の思想について次のように論ずる。「個人の自由を尊重し、鬼神の権威を否定し、君主は名ばかりであれと主張し、性や命の拘束に服従する基本的な思想の立場は、儒家と接近しており、また儒家よりも進んでいる。[十批判書]」
 そしてこのような思想は、封建的地主階級のイデオロギーであり、<二千年この方の狡猾主義の哲学>は荘子に発していると郭氏は言う。私・白川には思想の本質的な意味において、最も反体制的な立場にあると思われる荘子の思想は、全体主義的な社会規範が支配するマルクシズム階級史観の上からは、放言してはばかるところのない無責任な封建勢力の代表者と見られるのだろう。
 しかし荘子ほど自由な思想家はかつてなかったし、またこういう思想が生まれる時代も容易にはないのかもしれない。体制側のノモス的な社会規範と<実存的な一者>が無媒介に対置され、しかもあれほど体制権力を無視しえた時代はそうめぐってくるものではないからである。