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小谷野 敦 「日本人のための世界史入門」(新潮新書)2/2

 この本一冊を通して小谷野氏の言いたいことは 「序言」のサブタイトルに尽きている。「歴史は偶然の連続である」というものだ。 (偶然の連続が歴史なのであって)歴史書は単にあった事実だけを確定すればいい。それ以外はただの感想文であるのだが、事実だけを白々と記述しても読む人は覚えようともしないだろうし、退屈してしまうだろう。だから歴史が「好き」な人たちのために解釈・感想文としての物語が欠かせなくなる・・・・・こういうシニカルな序言には反論のしようがない。
 残念なところが一つだけある。ウィキペディアを見ると小谷野氏はたいへん多作の人である。だからとても多忙なのだろうか、歴史は偶然の連続であるというキーフレーズをただ放り出すように書くだけで、「偶然」とは何なのかについて、小谷野氏はひとことも説明していない。
 「偶然」とは、普通の考え方としては <何の因果関係もなく予期せぬ出来事がおこるさま(広辞苑第四版)> を言う。ところが小谷野氏は日本では天皇制が、ヨーロッパではローマ教皇制が続いたのは、ただの「偶然である」とだけ書いている(15ページ)。しかしこれでは何を説明したことにもなっていない。
 天皇制や教皇制の存続には、常識として、その時々の理由が幾層にも重なって存在している。<何々イデオロギー史観>がその複雑な因果を単純極まりない形に断定するのは「無意味である」、 と小谷野氏が言うのは正しいだろう。しかし、天皇制や教皇制の存続に原因も理由もない、「天皇制や教皇制」というのは複雑系のなかで起きた一事象であって、たまたまそうなっただけであると言うのは、いくら気軽な読物であっても乱暴である。
 似たようなことを言いたいなら 「歴史的事実は一回限りのものである、進化などすることはない」 ということを書いたほうがよかったのではないか。歴史には法則がある、歴史には発展の必然性があると考えるから、ヘーゲル史観や皇国史観のように、ナチスにつながったり、戦前の右翼につながったりするのだと書いたほうが、本書で小谷野氏が展開した「歴史に対する囚われのない立場」がストレートに伝わったのではなかろうか。
 では、なぜ「歴史的事実は一回限りのものである、進化などすることはない」とした方が囚われのない立論ができるのか。 数年前に読んだ『責任という虚構』という本の中で、著者・小坂井敏昭氏がある思考実験をとおして私たちの歴史事実の「一回性」をみごとに論証していた。
 ポリアの壷に似た思考実験がある。箱の中に黒い玉と白い玉が一個ずつ入っており、中を見ないで箱から玉を一個取り出した後、同じ色の玉を一つ加えながら箱に戻し、白黒あわせて統計的に有意な個数(たとえば五○○個)がたまるまでこの作業を行う。 
 一度目の実験で、五○○個たまったときの白玉と黒玉の割合が、約三五○対約一五○であるとする。この実験をそのまま続けてもこの三五○対一五○という値はほぼ変らない。 仮に七○○個たまるまで続けても、まるで世界秩序が最初から定まっていたかのように一定の値 (=定点、約三五○ 対 約一五○) に収斂するのである。
 しかし黒玉と白玉一個ずつの状態に戻して実験をやり直せば、(同じく五○○個たまった時点を仮に考えると)今度は先ほどとは違う値 (たとえば約三○○ 対 約二○○) に収斂する。白黒の合計が一○○○個になっても約三○○対約二○○に収斂することは、一回目の実験と同じである。
 一回目も二回目も定点に収斂してシステムが安定するのは同じだが、箱の「世界が実現する真理」(収斂する値)は毎回異なる。箱の世界がどんな値に収斂するかを前もって知ることは誰にもできない。
 われわれの世界に現れる真理は一つであっても、もし歴史を初期状態に戻して再び繰り広げることが可能なら、そのときにはまた異なった真理が現れるだろう。しかし歴史は初期状態に戻すことができない。そのおかげでわれわれは一回限りの「真理」を手に入れる。(以上『責任という虚構』(東大出版会 228−9ページ)

 ・・・・・小坂井氏の <収斂する「白い玉と黒い玉の比率」> は、私たちの歴史が「一回限りの史実」を重ねながら「安定したシステムとしての現在」に向かって収斂「した」ことを示している。個体の発生のようなどんな小さな「歴史」でも、初期状態に戻してやり直すことは絶対にできない。歴史には法則がある、歴史には発展の必然性があると考えることほど、「歴史」に囚われた見かたはない。
 個人の指紋はその人が胎児のときに、今の安定した(細胞状態の)システムに向かって、一回限りの「史実」を重ねてきたものである。その人が有精卵状態に戻れば、発生時という閉じられた複雑系の中での「偶然」によって、指紋は違うものになりえただろう。つまり 「別の歴史」 はありえただろう。しかし生まれた人が有精卵状態に戻ることは絶対にない。