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マックス・ウェーバー 「古代ユダヤ教」(岩波文庫・下)1/5

 都市のパトロンに支えられ、生活に困窮していなかった旧約の預言者たち
 p653-5
 預言者が語るのは、そのほとんどが国家と民族の運命である。しかも必ず、権力をにぎる者たちに対する感情の激した攻撃の形をとる。ここに「デマゴーグ」が、歴史上確認しうるかぎりでの最初の姿を現わす。これはギリシアにおいては、ホメロスがまったく違う形式で国家と民族の運命を語った時代だった。
 このデマゴーグはあらゆる秩序だった論議を回避し、その神託は暗い不安の中から稲妻のごとく将来の暗黒の運命を照らし出した。しかし彼らは形式的には純粋に私的な人間だった。権威があるように語り、権力に無頓着な人物ではなかったのだが、深謀遠慮の政治的行動は全くできない人物たちだった。
 p662-3
 (たとえば)預言者エレミヤは(バビロン捕囚の実行者である)ネブカドネザル王の権力下に服属することを民衆に説き、今日なら売国奴といわれても仕方がないようなことをしている。 が、その同じエレミヤが、ネブカドネザルの副官から贈り物を受けながら、バビロン捕囚となるユダヤ王の護送長にバビロンを呪詛する手紙を持たせ、ネブカドネザルに聞えるようにバビロン市内で大声で読み上げることを要求している。
 要するに、預言者たちは国際政治的デマゴーグまたは政治記者であったには違いないが、政治家ではなかったということである。預言者たちの国の不幸に対する神託は徹底的に宗教的に条件づけられており、彼らの現実の政治政策はまったく箸にも棒にもかからないものであった。
 彼らは時代の現実の権力諸関係を正しく評価はしていたのだが、そのことは政治記者であった彼らの態度決定に重要ではなかったのだ。だから彼らの神託の中では、さまざまの古い世界支配の希望が繰り返し現れた。しかしそれは、イスラエルの政治的幸福は自分の軍事力や政治的同盟によってではなく、かつての(大地震津波の引き潮による)紅海の奇蹟のような、なにかの神の奇蹟よって実現されるであろう、というふうな見解にますます移って行った。(p678-9)
 p671
 預言者たちは 「民主主義的」な理想の担い手では決してなかった。彼らは十分ゆきとどいた教育を受けた人たちであり、民衆には指導が必要であり、一切は指導する者の資質にかかっていると考える、経済的に困らないエルサレムびとであったた。
 だからどの預言者たちにせよ、苦しめられる大衆に革命とか救済の権利を告知することは一切なかった。宗教的「自然法」なるものはこの時代は存在していなかったのである。

 無報酬だったことが預言者たちの「誠意」を保証した
 p673-5
 しかし、重要が原則が、預言者たちにはあった。彼らの神託が無報酬だったことである。そのことは彼らを亡国の徒だと呪詛した宮廷人の言動を疑わせたし、怪物や竜や狂操道を語る者たちもその営利意図によって地位を落とした。
 この報酬を求めないかれらのやり方はのちに、(イエスもその一人であった)ラビたちに、そしてキリスト教の使徒たちによって継承され、宗教社会学的に特別な重要事項になった。
 このやり方が可能であったのは、多くの預言者たちが個人的なパトロンを持っていたからである。パトロンたちはエルサレムにおける個々の高貴で敬虔な家系の人々であった。その人たちは時として何代にもわたって預言者たちを支え続けた。
 農民たちが預言者のパトロンになることはなかった。それは当時の農民の拠りどころである局地的農耕祭儀の狂躁道に対して、またその狂躁道によってエルサレムの聖所が極度に汚されることに対して、預言者たちが激烈に反対していたからである。経済的、観念的に固く結びついていた地方の農民たちにとって、預言者たちは理解不能なことを喋り散らしている、別世界の「結構な」人々であった。
 p689
 預言者たちは―エゼキエルもエレミヤもホセアもイザヤも疑いなく恍惚師であり、その私的生活行状は、食生活も性生活も言葉も行動も奇人のそれであったのである。すくなくとも現在から見れば。