アクセス数:アクセスカウンター

マックス・ウェーバー 「古代ユダヤ教」(岩波文庫・下)2/5

 イスラエルの神ヤァウェが興味を持ったのは、戦争という無慈悲な世界だけだった
 p694
 イスラエルでのような、預言する恍惚師による自由なデマゴギーというものは、他のどこにも伝承されていない。ローマのような官僚主義帝国ではただちに宗教的警察権力が介入しただろうし、ギリシアでは神託所の祭司は厳重に統制されていた。エジプトでは恍惚師の預言はプトレマイオス朝ではじめて現われ、アラビアではムハンマドに時代になって現れた。
 p705
 預言者たちは聴衆たる大衆から理解されていないこと、嫌われていることを自覚していた。彼らは聴衆がかれらの「兄弟」であるとは一度も語っていない。むしろ内面的孤独におけるパトス、感傷的な、悲哀の気分が彼らに覆いかぶさっているのであり、預言者たちは彼らの幻覚を書き取る数人の忠実な弟子たちとだけ苦悶を分かつような人々だった。
 p709-11
 預言者たちが受ける「神の召命」を、禁欲や瞑想であれ、なにか道徳的行為であれ懺悔の苦行であれ、そうしたものの 「必然的な所産」 であると考えてはならない。例外なくそれは、わけが分からず 「突然やってくる」 のである。
 イスラエルの預言者はインドやギリシアの預言者と異なり、日常道徳を凌駕する何かの救済方法をつかむというようなことを、誰一人考えてはいない。だから彼らにとって重要なことは、ヤァウェの声を聞き、契約を守っているかどうかを預言者各人が自らに問うこと以外にはなかった。
 ヤァウェとの契約であるということの絶対性は、紀元前六世紀のギリシアの道徳律の絶対的拘束性に非常に類似している。ただしギリシアでは、インドにおけると同じく、その絶対的道徳律は「救済」なかんずく<岸的>救済をもたらすものであった。それとは正反対にイスラエルの預言者たちは禍を、しかも<岸的>禍のみを、神のトーラーに反逆する罪のゆえに告知した。
 p719
 預言者のうちで誰一人として、のちの黙示録記者のようになんらかの秘伝的結社に属したものはいなかった。
 この礼拝「団体」が欠如したことは、かれらと、イエス以後の初期キリスト教の預言との重要な相違である。 祭儀的な聖餐式を恩恵を媒介するものとして用いた初期キリスト教の伝道者とは対照的に、旧約の預言者とヤァウェは祭儀的にではなく現世倫理的に結び付けられていたのである。
 この点において、神の命令の単なる道具や奴隷であった彼らは、一つとして新しい神観も、新しい救済手段も、新しい神の命令も告知しなかったのだと言える。その数百年後、イエスのあとの初期キリスト教礼拝「団体」には、古代末期の諸密儀教団に発する要素が加わるのだが、それはユダヤ預言者たちの全く知らない新しいイスラエルの教えだった。
 p749-51
 イスラエルの預言者にあっては、インドのエクスタシスが授けてくれるような、あらゆる感覚的なるものから心を空にして離脱してしまう、神秘的で静かな至福の法悦というようなものはどこにも見られない。
 イスラエルの神が生き、支配し、語り、行動するのは戦争という無慈悲な世界においてにほかならず、預言者たちは自分たちの時代を深刻で不幸としか捉えようがなかった。彼らの信仰は、彼らのあらゆる体験に先立つ先験的(アプリオリ)なものであって、このアプリオリのゆえにかれらは神秘家となることは許されなかった。