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池谷祐二 「単純な脳、複雑な私」(朝日出版社)1/2

 私たちの脳細胞は、つね日頃たいした仕事をしているわけではない。脳細胞一つ一つの仕事は料理旅館の庭にある鹿威し(ししおどし)のようなもので、水源から水が入ってきて竹の筒が一杯になると重力の作用で筒が傾き、筒の下の石鉢などに一挙に放水する・・・・・、そのときカーンと音を立てるあの鹿威しのような入出力マイクロマシンの仕事である。末梢感覚神経から信号が脳細胞に入ってきて、その量が一定の閾値を越えると隣り合った細胞群に信号を一挙に出力する・・・・・、ごく簡単に言うとそういうことである。「単純な脳」とはそういう意味だ。
 ところが、一個の細胞ならこのようにきわめて単純な仕事だが、この脳細胞が一千億個もあり、しかもそれぞれの細胞には数個の突起があり、その突起を介してネットワークを作っているとなると、とんでもなく複雑な仕事をするようになる。夢や幻や神を見たり、数学の超難問を解いたり、思いを寄せる女性の心の中をとんでもなく邪推したり、碁や将棋で何十手先まで読みきったり、隣国の人種を激しく憎悪したり、モーツアルトに不覚の涙を流したりする。・・・・・・そんなことがどうしてできるのか。「複雑な私」とはそういう意味である。 
 素敵なタイトルを持つ本書は、ごく普通の人間の単純な脳細胞に大それた離れ業ができる仕組みを、著者が二十年前に卒業した高校に出向き、後輩たちに連続講演した中味を一冊にまとめたものである。ネットの読者レビューでは好意を持って迎えられている。サイエンスライターとしての才能にかなりのものがあると思うが、本業の脳科学でもレベルの高いコンピュータシミュレーション技術を駆使できる有能な若手研究者として認められているようだ。

 「脳を考える」ことは必然的に無限の自己言及に陥ること
 p376−99
 「脳」を考えるときは、当たり前だが、自分の「脳」を使って考える。自分で自分のことを考え、そう考えていることを考えているのも自分の脳である。つまり脳は入れ子構造(リカージョン)になっているのだが、このリカージョンには落とし穴があることに気をつけなければならない。
 人間は 「考えている私を考えている私を考えている私を・・・・・(以下無限)考える」 ことができるが、チンパンジーはせいぜい一階層くらいのリカージョンしかできない。つまり「考えている自分」を、相当訓練してやっと発見できる程度である。ヒトでも、リカージョンを何層にもわたって続けることができるのは、ある程度成長してからである。(大人になってからでも一階層くらいのリカージョンしかできない人は、いくらもいる。) リカージョンは、なぜヒトでのみ可能になったのだろう。
 理由は言語である。文法はリカージョンの典型だからだ。 「太郎君はキャッチボールをしている」というのは二歳の子供でも作れるフレーズだが、やがてその子が成長すると 「一郎君は、私が、太郎君がキャッチボールをしているのを見ていたのを、怠けていると責めた」 と主述をリカージョンして、多層的な構文を作れるようになる。関係代名詞がない日本語の複層構文は大したものではないが、マルクスウェーバーの四層・五層にもなるドイツ語の構文には、初学者の大抵の人が参ってしまう。
 言語は原理の上ではいくらでもリカージョンを作ることができる。そしてヒトはその、主述を入れ子にし、自分を目的語化するリカージョンによって、自分って何だろう、脳って何だろうという 「自己投影」をするクセがついてしまった。さらに言えば、この自己投影によって、私たちは自分に心があることに気づくようになり、しかもその 「心」 を必要以上に神秘的に捉えるようになってしまった。
 リカージョンには落とし穴があるといったのはこのことである。「心はよく分からない不思議なもの」というが、本質的には、リカージョンの単純な繰り返しに過ぎない。自分の心を不思議に感じるということには、いわば自己陶酔に似た部分があって、それ自体はただの自己投影に過ぎないことが多く、科学的にはさほど重要なことではない。
 ギリシアの昔から有名な哲学上の解決不能問題に 「自己言及の矛盾」 というのがある。 クレタ島出身のエピメニデスが言ったという『クレタ島人は嘘つきである』という言明は本当か嘘か、 という問題である。 
 脳を使って脳を考えるというのは「自己言及の矛盾」の代表的なものだ。リカージョンという落とし穴にどうしてもはまってしまうのだ。だから脳科学者のやっていることは、必然的に矛盾をはらんでいる行為だといえる。脳科学は 「答え」 に絶対に行き着けないことを運命付けられた学問なのかもしれない。