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池谷祐二 「単純な脳、複雑な私」(朝日出版社)2/2

 僕らにとって「正しい」という感覚を生み出すのは、「どれだけその世界に長くいたか」というだけにすぎない
 p112
 僕らはいつも、妙なクセを持った目でこの世界を眺めて、その歪められた世界に長く住んできたから、もはや今となってはこれが当たり前の世界で、だから、自分の見える世界こそが「正しい」と思っている。そういう経験の「記憶」が正しさを決めている。
 例えばシマウマ、あれはどんな模様をしているだろう。白地に黒シマか? それとも黒地に白シマか? こう訊くとたいていは「白地に黒シマ」と答える。しかしアフリカの現地の人は「黒地に白シマ」って答える。 理由は私たちと現地の人の肌の色の差にある。現地の人たちの感覚、つまり彼らの「脳」にとっては地肌というのは「黒」が普通なわけで、「白」は飾り模様にすぎない。
 自分の個人的な価値基準を、「正誤」の基準だと勘違いしてしまうと、それは差別そのものだ。しかし、自分の感じる世界を無条件に「正しい」と思い勝ちなのが私たちの「脳」の本性である。

 遺伝子は生命の設計図ではない
 p352あたり
 福岡伸一さんがどこかで言っていたように、受精卵が何百回か分裂を繰り返しただけでまだごく初期の胚状態にあるとき、その胚のどの部分が何の器官に分化するのかは、外から見ていても全く分からない。
 その状態をコンピュータシュミレーションしても、数百回や数千回分裂した状態では、ただ細胞の塊としてグズグズ動いているだけで、どんな形をめざそうとしているのか、外からは見当もつかない。
 ところがこれを一万回くらい繰り返すと、 「細胞の塊」が突然意思を持ったみたいに、あるいは袋のような、あるいは筒のような 「形」に向かって成長をはじめる。 これを「創発」というのだが、この創発を目の当たりにすると誰でも何か崇高な 「生命現象」を感じてしまう。
 でも、本当のところは、分裂を続ける細胞が隣り合わせる細胞と、あの鹿威しのような信号の入出力を繰り返し、「袋」や「筒」のような形に向かって創発するだけなのだ。どこか「高い」ところから、分裂を続ける細胞群に 「何々の器官になりなさい」という指示が来るわけではない。「何々の器官になるべし」という設計図が遺伝子に描かれているわけではない。ヒトの遺伝子はたったの二万数千個。この数の設計図で、神経や血管や免疫システムや情報処理システムなどを間違いなく作れるわけがない。
 遺伝子は生体発生の詳細な青写真なのではなく、単純作業をいつまで・どこまで行うかのルールが書かれてあるだけものではないだろうか。その厳密なルールに基づいて、生物の材料たちがせっせと単純な作業を繰り返している。その「作業」には、器官の構造がいったんできた後、不要になった部分を「自殺」させることも含まれている。・・・・そうしてただの 「物質」から、精妙きわまりない(ように見える)「生命体」が自己を組織化する。だから、わずか二万数千個の遺伝子でことが十分に足りるのだ。

 心の働きは、過去の進化過程で 「別の機能だったもの」を使いまわした結果生まれたもの
 p169あたり
 進化の過程では、ある生物学的形質が本来の目的とは違う目的に転用されることがよく起きている。これを「前適応」という。 鳥の羽毛はその代表例だ。羽毛は飛ぶために進化したわけではない。本来それは体温維持のためだった。それが後に飛ぶという目的にも転用できるようになったのだ。このことを「羽は飛行のために前適応している」という。分かりやすくいえば、もともとあった別の機能の使いまわしが「進化」にはずいぶん役に立っている。
 進化で得られた資産を「使いまわす」こと自体は、生物界ではあちこちに見られる普遍的な現象だ。そんな流れの一つとして、疎外感などの 「社会的な心の痛み」にもまた、ありふれた 「痛覚」の神経回路が使いまわされていることが分かってきた。
 「のけ者にされたときの脳の反応を調べる」という実験がある。そんな状況に置かれたときの被験者の脳の反応をMRIで測定すると、驚くことに物理的な<痛み>に反応する脳の部位が活性化する。仲間からの「疎外感」を検知するために太古からの「痛覚」を使ってみるなんて、これは進化上の大発見、高等哺乳類の大発明といっていいのではなかろうか。もっともそれがはたして幸福なのか不幸なことなのかは、誰にも分からない。