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内田 樹 「期間限定の思想」(角川文庫)

 邪悪なものが存在する
 p60−2
 私たちの精神は 「意味がない」 ことに耐えられない。私たちの精神は、進化のいつかの時点で、「自分」のことを考えるようになり、「自分」と「世界」の関係性に気づいた結果、 「世界に意味がない」 ことに耐えられないように出来てしまった。
 だから私たちは 「意味がないように見えることにも、必ず隠された意味がある」 と思い込む。昔の人は、まったくランダムに散らばった天の星にさえ、その星と星との間に勝手な線を引き、熊やひしゃくや竪琴を捏造したほどである。私たちが「オカルト」にすがりつくのもそのせいだ。一見意味がないように思えることにも 「実は隠された意味がある」 と言ってもらうと、私たちは安心する。・・・・・・・・・・。
 オカルトのように「邪悪」なものによって私たちの心が損なわれるというのは、誰にとってもごくごくありふれた経験である。しかし、散らばった星星から美しい星座を作り上げたように、私たちはその 「理屈に合わない」 経験を必ず 「合理化」 しようとする。
 愛情のない両親にこづき回されること、ろくでもない教師に罵倒されること、欲望と自己愛しかない男に収奪されること、愚劣な上司に査定されること、不意に死病にとり付かれること・・・・・、私たちの心を損なう「邪悪」を数え上げればきりがない。
 だが、そのようなネガティブな経験を、私たちは必ず 「合理化」 しようとする。私たちを高めるための「試練」であるとか、私たちをさらに高度な人間理解にいたらせるための「教訓」であるとか、社会制度の不備のせいであるとか言いつくろおうとする。「システムの欠陥」でも「トラウマ」でも「水子の祟り」でも何でもいいから、自分の身に起きたことは、それなりの因果関係があって生起したのだと信じようとする。
 しかし心を鎮めて考えればだれにでも分かることだが、私たちを傷つける「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、戒めの要素もない。まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを損なうだけのために、私たちを傷つけるのである。古来、キリスト教は、世界各地で大地震が起きるたび、宗敵ばかりか味方もひとしなみになぎ倒す「神の邪悪」の無意味さのために、多くの信者を失ってきた。

 瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず
 p141−2
 およそ政治家先生ならば、表題の意味は中学生のとき教えられているだろう。 「瓜田に履を入れず」とは、おいしい瓜の生っている畑では、立ち止まると「瓜泥棒」と思われるから、靴が脱げても履き直すなという教えである。 「李下に冠を正さず」とはおいしいスモモの生っている木の下では、立ち止まると「スモモ泥棒」と思われるから、冠がずり落ちてもそのまま立ち去れ、という教えである。
 この古言の意味をお分かりだろうか。あなたがた官人というのは 「潜在的な泥棒」と見なされているから、あなたがたは「いつでも容疑者」なのだから、そのつもりで常住坐臥、振る舞いかたに人一倍気をつけなさいと言っているのである。政治家と不動産屋がはなはだ信用の薄い職業であるのは、時代と洋の東西を問わない。・・・・・・・・・・。
 通常の法諺は「疑わしきは罰せず」であるが、役人や政治家にはこの原理は適用されない。彼らは「疑われたら罰される」。市民を保護する規則は彼らには適用されないのは当然である。役人や政治家は他人の私権を制限する権能を持たされているからである。他人の私権を制限する権利を持つものに、一般市民と同じ私権を認めるわけにはいかないではないか。
 一般市民でも私権が制限される場合はいくらでもある。報道機関の人間は株を売買できない。市場の動向を左右するインサイダー情報を得られると想定されるからである。新幹線計画を知っている(かもしれない)人間には、建設予定地の土地を買収する権利はない。理由は同様である。
 これは、言葉を変えれば、政治家は有徳有能であるように 「想定される」人間としてふるまえるだけで、それで合格ですよ、ということである。小沢一郎は、「瓜田に履を納れ、李下に冠を正し」ながら、政治主導を唱えるならず者ということである。
 政治家は実際に有能である必要も有徳である必要もない。市民の面前でそう見えるようにふるまえれば、それでよろしい。市民から、「正しい決断を下す判断力があると想定」されることが死活的に重要なのである。レーガンやビル・クリントンを見れば分かるではないか。聖徳太子がそうであったではないか。