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丸山真男 「忠誠と反逆」 丸山真男集第八巻(岩波書店)

 明治時代の半ばに、維新の精神的気候が変わった 
 p223-50
 天皇制の「正統性」が原則的に確立したのは、自由民権運動を強力に鎮圧した土壌の上に、帝国憲法の発布、市町村制の施行、教育勅語渙発などがあいついで行われた明治二十二、三年以降のことである。ほぼこのころから社会的規模で開始された「帝国臣民」の馴化過程は、明治三十年代の中ごろまでに一応完了した。
 経済的にも、明治十年代の資本の蓄積過程のなかで地方産業の自生的な芽生えは無残に摘み取られ、その地ならしの上に、二十年代から日本の「政商」型資本主義がようやく本格的に発展し始めた。全体制的な意味での日本の「近代」はこのころから始まるといっていい。
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 「国体の精華」とか、万国に比なき君臣関係とかいう観念は、それ自体としては王政復古以来称え続けられてきたけれども、そのころまでは、具体的な政治形態について何が維新の精神の正統的な実現であり、何が国家的忠誠(愛国)であるか、をめぐって広汎な解釈の幅があった。この「解釈の幅」にこそ、圧殺されるまでの自由民権運動が、五箇条のご誓文や明治八年立憲政体の詔勅などを援用して、むしろ「聖意」にそむき維新を裏切っているのは明治政府の側だ、ということを強く主張できた根拠があった。
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 たとえば岩野泡鳴は明治時代の終焉にあたって、わずか四十年間における国家忠誠観の巨大な変化を次のようにふりかえっている。
 「孝明天皇崩御に際会した人々はまだまだたくさん生存しているが、その人々を育てた維新前の思想は・・・・足利尊氏北朝を建立したときの時代思想とたいした違いはなかった。国家の統一観念――というよりもむしろ国家と皇室の合致の念――があまりなくて、国家の政治を直接に左右する当局者のためには、皇室に対するもっとも不敬な行為をしても問題にはならないかのごとく思ったものも多かった。
 「日清戦争までは、天皇と国家とは同一で、君に殉ずるは国難に殉ずるのだという思想はあったにしても、それは一般国民にとってはたんなる空想ないしは理想であった。天皇に対しては、ちょうど遠い国へ行っていてまだ会ったことのない父に対して、毎日かげ膳を供するほどの心地しか実際には持っていなかった。」
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 このようであった一般国民の国家的忠誠心が、明治二十年代からの帝国憲法教育勅語の発布などによって、政府の側から一方的に「判定」されるようになっていった。そして、あまりにも有名な「忠君愛国」というシンボルが、国家的忠誠と天皇という人格への忠誠との二者をみごとに癒着させたのである。
 p238−40
 内村鑑三などは一貫して「忠君愛国」的な忠誠思想を批判したが、その批判は明確な「抵抗権」という基礎の上に築かれたものではなかった。
 それには明治初期のキリスト教信者の指導的人物の多くが佐幕派の出身だったことと関係が深い。ヨーロッパの抵抗権思想は、カルビンが激しく宣言するように「信仰に自由に対する権力の侵害はほかならぬ神への反逆であり、信徒の抵抗権の行使は、まさに侵害された神の主権の回復をめざす義務である」というところから出発する。
 ところが佐幕派の出身だったわが国のキリスト教信者の指導的人物は青少年時代に「敗者の苦痛」「国敗れて山河あり」の逆境を体験し、世俗的地位への期待を断念したことが、信仰告白心理的跳躍台になっていた。 初期キリスト教者の行動様式は直接に武士的エートスという、まさに失われた時代のものから給油されていたのである。
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 事態を冷酷に見るならば、現世的な怨嗟情念だけが彼らのエネルギー源であったといっても過言ではない。政府側から憲法、市町村制、教育勅語、産業の資本主義化などが着々と整備される中で、その「忠君愛国」思想への彼らの批判は、まったく社会的な基盤を持たない「荒野の叫び」になっていったというほかない。