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福岡伸一 「動的平衡2」(木楽社)1/2

 遺伝はほんとうに遺伝子だけの仕業か?
 p51-5
 遺伝現象について、最近、エピジェネティクスという考え方が出てきている。エピは「外側」、ジェネティクスは「遺伝子の」、つまり、「遺伝子の外側で起きていること」という意味だ。簡単にいえば 「遺伝子というモノだけではなく、遺伝子とその周辺にある何かが一緒になって生命現象を動かしているのではないか」 と考えるのがエピジェネティクスである。
 ・・・・・・・・・。
 ここにA、B、Cという三つの遺伝子があったとしよう。Aがいつ、どんなボリュームで働くか、Bがいつ、どんなボリュームで働くか、Cがいつ、どんなボリュームで働くか。A、B、Cという遺伝子単独の働きだけでなく、その働きの順番とボリュームが変わると、遺伝現象は変わるのではないか。エピジェネティクスはそういう考え方をする。
 遺伝子というモノだけをいくら見ていても、A、B、Cという三つがあることしか分からない。それがどういうタイミングでどういうボリュームで働くのかを考えないと、進化を含む生命体の変化は理解できない。・・・・・・・それは、同じ楽譜であっても、演奏者によって音楽が千変万化するのに似ている。
 生命体は、置かれた環境によって遺伝子のスイッチの入る順番やボリュームを自動制御している。寒ければ寒さに対処する遺伝子のボリュームを上げ、暑ければ別の遺伝子のボリュームを上げて身体を冷やそうとする。ミクロネシアに住む人と北極圏のイヌイットで、暑さ寒さに対処する別々の遺伝子を持っているわけではない。遺伝子の構成は全く同じである。しかし気温二十度の環境に置かれたとき、ミクロネシアに住む人と北極圏のイヌイットでは、同じ暑さ寒さ対処遺伝子の働くボリュームが大きく異なる。
 古典的なダーウィニズムに立つと、そうした環境への適応は、個体が勝手にやっていることで、次の世代には伝わらないと解釈される。遺伝子A、B、Cはタンパク質製造の設計図だから、環境に応じたボリュームの上げ下げまでは遺伝しないと考えるわけだ。私たちが高校生時代に学んだ 「獲得形質は遺伝しない」という話である。 しかし、エピジェネティクスの考え方は違う。
 p204−6
 タンパク質の製造設計図はDNAである。そのことは間違っていない。DNAの情報がRNAにコピーされ、RNAの情報をもとにタンパク質が作り出される。つまりRNAは作業仕様書に相当するのだが、これは「DNAとRNAとタンパク質」が「1:1:1」で進むわけではなく、「1:多:多」で進む。一つのDNAから何個ものRNAがコピーされ、それぞれのRNAから何個ものタンパク質が作られる。つまり、タンパク質が作られるとき、DNAの情報は増幅されて伝えられる。
 このことが、環境からの刺激に対してDNAからRNAが作られるレベルに調節を促し、タンパク質製造を増やす、もしくは減らすことを可能にしている。だからスポーツジムでどんなに筋骨隆々になろうとも、そのプロセスにおいて、設計図であるDNA自体には変化はない。したがって、どんなに必死にボディビルディングをして逆三角形の肉体を作り出しても、それを子孫に伝えることはできない。子孫に伝達されるのはDNAであり、そのDNAに変化が起きない限り、変化は伝達されないからだ。そのように私たちは、 「獲得形質は遺伝しない」と、たしかに高校生時代に学んだ。
 p207
 ここが科学の面白いところだと私はつくづく思うのだけれど、一度は否定された思想が、新しい光によってまた照らし直されるということがある。
 そういうことが、「DNA→RNA→タンパク質」という体内でのタンパク質の製造過程を解明した分子生物学の分野で起こった。それはラマルクを完全に否定したはずの分子生物学自身が、まったく新しい知見の光を「獲得形質の遺伝」に当てることだった。その新しい光が「エピジェネティクス」である。
 エピジェネティクスとは一般的な遺伝(ジェネティクス)の外側(エピ)で生じる遺伝現象のことである。ラマルクが「獲得形質は遺伝する」としたのに対して、エピジェネティクスは、「遺伝子そのものではなく遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組みが受け渡される」という言い方をする。
 言い方はややこしいが、世代を超えてその様式が伝わるのであれば、これも遺伝といって何の差し支えもないだろう。競走馬ディープインパクトのDNAは、同じ世代のサラブレッドのDNAとなんら違うわけではない。しかしディープインパクトは圧倒的に強かった。その強さは、個体が「たまたま」そうなのではなく、ディープインパクトがライバルたちに比べて明らかにレベルの異なる 「遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組み」 を親から受け継いでいたからだったのだ。2013年の日本ダービーは、その仕組みがディープインパクトの子供たちにもちゃんと引き継がれていたことを傍証してくれた。