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福岡伸一 「動的平衡2」(木楽社)2/2

 p208-12
 ヒトとチンパンジーの違い
 ヒトとチンパンジーのゲノムを比較すると九八%以上が共通であり、ほとんど差がない。では、残りの二%の中に、ヒトとチンパンジーを分ける特別の遺伝子があるのだろうか。
 おそらくそうではない。特別の遺伝子の存在などという、質的な差ではない。
 ヒトにあるA、B、C、Dといった遺伝子はチンパンジーにも同じようにある。ただAが、ほんのわずかだけ変化してA’となっていて、チンパンジーはA’、B、C、Dという遺伝子を持つ。もちろん、これは例であって、遺伝子全体の数は二万数千種類にも及ぶが、しかしそれでも差は文字列のわずかな異同であり、それ自体がヒトとチンパンジーの特徴の差を生み出しているのではない。
 つまり私・福岡の言いたいことはこうである。仮に遺伝子だけを操作してチンパンジーのA’をヒトのA遺伝子にすげ替えても、そしてこの操作を繰り返してDNA配列上の二%の差をすべて書き換えたとしても、チンパンジーはヒトにはならない。
 では何がヒトをヒトたらしめているのだろうか。それはおそらく遺伝子のスイッチがオン・オフされるタイミングの差である。 脳でスイッチがオンになる一群の遺伝子は、チンパンジーよりヒトで、発現のタイミングが遅れる傾向が強い。脳の、ある部位に関していえば、ヒトはチンパンジーよりもゆっくり大人になる。脳だけではない。外見的な特徴を見ると、ヒトは、体毛も少なく、顔も扁平でチンパンジーの幼いときに似ている。(アジア人は特にそうだという人もいる。)
 つまり、チンパンジーが何らかの理由で成熟のタイミングが遅れ、子供の特徴を残したままゆっくりと性成熟するような変化が、あるときに生じた。そしてこのことには進化上、意外な有利さがあった。
 子供の期間が延びるということは、それだけ恐れを知らず、柔軟性に富み、好奇心に満ち、探索行動が長続きするということである。また手先の器用さや運動・行動のスキルを向上させる期間が長くなるということでもある。さらに、性成熟が遅いということは縄張り争いや順位づけ、メスの取り合いやオス同士の闘争などが起こりにくい、すなわち攻撃性が低いということでもある。
 このことこそが知性に発達に手を貸すことになった。要するにヒトは成熟期間が長いチンパンジーとして、基本的な遺伝子配列は変えずに、エピジェネティクスを重ねて進化したということである。ヒトをチンパンジーから截然と区別しているものの大半は、発現の「タイミング」や「同期」など、遺伝子配列の「外側」で起きていることなのだ。
 DNAの傷の意味
 p1・236
 生命は、それをモノとしてみればミクロな部品の集合体にすぎない。しかしそれを現象として捉えると、生命は内部と外部でエネルギー、情報、物質が絶え間なくやり取りされ、それでいてバランスが保たれている動的平衡体である。
 がんという病には、生命とは何かという問いがあますところなく内包されている。生命は動的平衡を保とうとする、柔軟で可変的な存在である。推せば押し返し、沈めようとすれば浮かび上がろうとする。
 がんの振る舞いほど、それを体現しているものもない。がん細胞の活動を止めようと、ピンポイントで介入すると何が起きるか。例えば、ある代謝回路に干渉するような抗がん剤を使用すると、がんは別のバイパス回路を活性化させる。
 がん組織の内部を低酸素状態にしてやろうとすると、ストレス応答遺伝子を活性化させ、より強力ながん細胞に変化する。あるいは自ら血管を誘導する因子を放出して、毛細血管をがん組織に引き込み、栄養と酸素を受け取る。
 これらはいずれも、私たちの細胞が本来的に進化の過程で獲得してきた適応の仕組みである。がん細胞はこの仕組みをそっくりそのまま自分のものにしているのである。
 ・・・・・・・・、遺伝子上に発生するミス――これががんの主たる原因なのだから、もしこのシステムが完全に働き、細胞分裂に伴う遺伝子の複製がきちんと行われれば、がんは発生しなくなる。私たちはがんに侵される心配をせずにすむ。
 しかしがんの発生が完全に抑えられたとき、同時に生命系にとって致命的なことが起きる。進化の可能性が消えてしまうのである。わずかながらコピーミスが発生するゆえに、変化が起こり、その変化が次に世代に伝わる。それが、もし環境に対して有利に働くなら、その変化が継承される。これが進化である。・・・・・がんの発生とは、進化という壮大な仕組みの中に不可避的に内包された矛盾のようなものなのだ。