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内田 樹 「街場のメディア論」(光文社新書)

 「気づかない」ふりをする朝日の論説委員
 p38・49
 いま、ジャーナリストがはなはだしい知的劣化を起こしています。テレビや新聞の凋落の最大の原因は、インターネットよりもむしろジャーナリスト自身の知的劣化にあると僕は思っています。
 数年前、朝日新聞の「外部紙面批評」をやっていたことがあります。そのとき、論説委員編集委員の人たちから「歯に衣着せず、新聞を批判してください」と頼まれたものだから、「なぜ新聞はTVの批判をしないのか」と思っていることを言わせてもらいました。
 ちょうど「納豆ダイエット」をめぐってTV局と納豆業界がやらせ番組を作って、店頭から納豆がなくなるという事件のあったときです。もちろん新聞は一斉に「やらせ問題」を叩きました。でもどこの新聞社も「こんなインチキな番組を作って視聴者をだます、なんて信じられない」と書いたんですね。
 ぼくは「それは嘘だろう」と思ったんです。TV局は制作費を中抜きするだけで、実質的な制作は下請けプロダクションに丸投げしていることを、新聞記者なら知っていて当然だからです。そんなことをするはずがないと記者たちが本当に思っていたとしたら、それは無邪気すぎる。そんなナイーブな人には新聞記者は務まりません。もし知らなかったとしたら、それはメディアの人間として恥ずべき無能、知的な劣化を意味するだけです。
 でも朝日の論説委員だか編集委員だかの人は、ぼくの質問に対して苦笑いしながら「あなたは素人だから、そんな気楽なことをおっしゃいますがね、新聞で「TVのこの番組は俗悪だ」なんて批判すると、結局その番組の視聴率が上るだけなんですよ」と言った。
 僕はこれを聞いてちょっとショックを受けました。僕は個別の番組の良否ではなく、「なぜTVはダメになったのか」という構造的な問題にどうして新聞は踏み込まないのかということを訊いたつもりです。
 しかしこの記者は僕の問いをわざと矮小化して、「俗悪番組をやり玉にあげる」という定型的なTV批判に読み換えた。「俗悪番組つぶし」の論を語っていると、意図的に勘違いして見せた。
 古めかしい言い方をあえて使わせてもらえば、僕は、「その情報にアクセスすることによって、世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」、それによってそのメディアの価値は決定されると思っています。ぼくが提起した問いを、「聴かないふりをした」ということで、僕は、「新聞はもうだめだな」とそのとき思いました。論説委員編集委員レベルの記者にこれほど危機感が希薄ではどうしようもない、と。
 ビジネスのスキームになじまないもの
 p106-7
 「メディアはビジネスだ」という、あまりに広く深く根付いている信憑があります。「メディアはビジネスであってはいけないこともある」といわれると、怒り出す人もいるかもしれません。
 現代人は「社会の諸関係はすべて商取引をモデルに構築されている」と考えています。たしかに、資本主義経済体制の中に僕たちは生きているわけですから、ほとんどの社会関係がマーケットにおける商取引を基礎にして理解されるのは、当然といえば当然です。
 けれども、「社会制度のなかには商取引の比喩では論じることのできないものもある」ことは忘れない方がいい。さしあたり、「市場経済が始まる前より存在したもの」は、商取引のスキームにはなじまない。
 「社会的共通資本」という、経済学者の宇沢弘文先生の概念があります。それは、人間が共同社会を生きていくうえで不可欠のモノやコトをいいます。自然環境(大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌など)、社会的インフラ(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)、制度資本(教育、医療、金融、司法、行政など)がここに含まれます。小泉純一郎やロナルド・レーガンは、これらもすべて商取引の対象とするシカゴ派経済学グループの「規制緩和」提言を受け入れ、リーマンショックや今日の経済格差を誘導しました。) 政権が変わるたびに教育や医療のシステムが変わっては困ります。海や森が個人によって所有されて、勝手に切り売りされたり、好き勝手に破壊されても困る。
 学校教育制度がめまぐるしく変わることで、迷惑するのは何よりも子供と教員の教育現場です。けれども、人間が共同社会を生きていく上で不可欠の教育制度を「うかつにいじるな」と主張したメディアは、僕の知る限り存在しません。
 考えれば当たり前のことですが、社会が変化しないとメディアに対するニーズがなくなるからです。瓦版の時代からそうですが、大きな変化が、政治でも経済でも文化でも、どんな領域でもいいから起こり続けること、メディアはそれを切望します。
 政権交代でも、株価暴落でも、原発メルトダウンでも、アイドルの薬物使用でも、教育制度の改革でも、あらゆる「変化はよいことである」というのはメディアにとって譲れない根本命題です。なにしろTVの視聴率は上がり、新聞の部数は伸びるのですから。
 昨年暮れ、政権が民主党から自民党に変わってしばらくしてから、朝日新聞のページ数が少なくなったことにお気づきになったでしょうか。円が安くなり、日経平均株価が上がり、一部企業の給与交渉に満額回答が出、日本経済の実態がよくなったように見えるようになって、新聞は「書くことがなくなってしまった」のです。政局のお騒がせが消え、社会が一応落ち着いてしまって、震災ネタでは「除染対策費が電力会社支援に回っている」という小ネタくらいしかなくなってしまった。
 福島原発事故の後、朝日新聞は社告を出して、「朝日新聞は全社をあげて原発ゼロ運動を推進する」と勇ましくも宣言したはずです。ところが与党が原発再開をなし崩しに行い、国民が拒否反応を示さないと見ると、「原発政策 先祖がえり」といった見出しを出す程度で、社告のことはすっかり忘れてしまったかのごとくです。「エネルギー料金を安くしなければ『日本企業』の看板を外すぞ」とすごむ無国籍グローバル資本の経済暴力についてなどは、とうの昔に踏み込む勇気を失ってしまいました。グローバル企業からの広告出稿が止まることにおびえたからです。
 そしてどうでしょう。朝日新聞は、アべノミクスを正面きって扱う気力も知力もないものだから、「デジタル朝日」の自社広告を何ページも載せようになり、自社の宣伝記事で読者に購読料を請求するという破廉恥なことを始めたのですね。街のおいしいお店紹介が載っているコンビニやキオスクのフリーペーパー、あれには基本的に提灯記事しか載っていませんから、ただですよね。こっちのほうが朝日新聞のやり口よりはずっと堅気です。