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内田 樹 「街場の文体論」(ミシマ社)1/2

 内田樹神戸女学院大学での最終講義 「クリエイティブ・ライティング」を一冊にまとめたものである。人気教授の最終講義とあって、学外からの聴講者も多く、同僚教員も多数詰めかけて盛況だったらしい。

 司馬遼太郎の美学は日本人だけのためのもの
 p98−100
 司馬遼太郎は日本を代表する作家です。外国の人が日本人の価値観や美意識、あるいは権力構造や組織を知ろうと思ったら、司馬遼太郎を読むのが一番いい。『龍馬がゆく』や『坂の上の雲』を読むと、日本人が何を考えているか何を感じているかがよく分かります。日本人のことを研究したいと思ったら、司馬遼太郎山本周五郎藤沢周平を読む、そういう選書が効率的であるとおもいます。
 しかし、こういう系列の作品はなぜか翻訳がない。いま司馬遼太郎の『坂の上の雲』を英訳するというプロジェクトが進行していますが、その売れ行きについては、僕・内田は懐疑的です。日本で出れば百万部ですが、アメリカでは数千部のオーダーでしょう。
 どうしてか。『坂の上の雲』は、ひとことでいってしまうと、極東の貧しくひ弱な農業国が、可憐なほどの近代化努力を遂げて、巨大な帝国主義国家に勝った、という劇的な落差を描いた小説ですよね。日本人読者なら 「われわれはこれほどの近代化努力をして、ついに戦争に勝った」という先人へのエールとしてこの小説を読めます。
 でも外国の人には、この小説は 「戦勝国に生った日本人は偉い、わはは」という自慢話である、というふうに読めてしまうでしょう。だから外国の読者は「それがどうした」という感じになる。長い小説ですから、途中で飽きてしまう人も多いのではないでしょうか。
 そういう読書感想がありうることを、たぶん日本人読者は想像していません。作者自身も想像していなかったのではないか。圧倒的なビハインドを埋めた明治の先人たちの力業を描くことに司馬遼太郎の主眼はあったわけですから、自分の対角点には外国の読者の「自慢話だろ?」という醒めたまなざしがあることを、司馬自身よく理解していたかどうか・・・・。
 司馬遼太郎の文章は平明で論理的でもありますから、英訳しても十分読めると思います。にもかかわらず、どこか外国人読者に対しては 「ドアが閉まっている」 感じがする。それは司馬遼太郎が日本人をまるごと抱きしめ、叱り、励まし、導こうとする作家だったからです。身内の悪口は言わない。身内の恥は明かせない。そういう抑制がはたらく作家だからです。
 フランスやイギリスの作家が自国の歴史を書く場合には、同胞をひとまとめにして抱きしめるというようなことはしません。卑劣なやつは同郷人であっても卑劣漢です。でも司馬遼太郎はそうじゃない。かれは本当に卑劣な人間については書かない、書けない。その挫折や悲劇について涙できる同胞のことしか書けなかった人なんですね。

 なぜ吉本隆明は欧米語に訳されないのか
 p103−5
 なんでこんなにすぐれたものの欧米語訳がないのかと思うものはいくつもあります。たとえば吉本隆明。戦後日本の思想をこの人抜きには語れない人です。その人の書き物が一つも翻訳されていない。
 いっぽうで、丸山真男。日本の軍国主義イデオロギーを論じて、なぜ日本は戦争を選んだのか、なぜ大日本帝国の戦争指導部はあれほど無能だったのか、なぜ帝国は瓦解したのかを、非常に怜悧に分析しました。
 吉本と丸山は研究対象も近いし、さらっと読むと、結論もほとんど同じに見えます。でも、吉本隆明は一つも翻訳がないのに、丸山真男は主著のほとんどが英訳されている。何が違うのか。
 文体だけを比べたら、吉本隆明のほうが読みやすい。詩人ですから、文章がぴんと立っている。丸山は政治学の先生ですから、名文家ではない。マックス・ウェーバーなどをとてもよく勉強しているので、丸山自身の文章も日本語としては珍しいくらい複文構造のものが多く、わりと読みづらい部類に入るかと思います。私は個人的には好きですけれども・・・・・。
 丸山真男軍国主義が嫌いで、高校生のときに特高に引っ張られて理不尽なびんたを食らってもいます。そんなこともあって戦前からずっと、こんなろくでもない体制はさっさと潰れたらいいと心の中では考えていたわけで、東大助教授のときに懲罰的に徴兵され、前線に引きずり出されて古参兵たちにさんざんいじめられています。当時の常識としても、たとえばナチスドイツでベルリン大学助教授を二等兵として徴兵するのはありえないわけで、このこと一つとっても日本戦争指導部の精神の異常な偏執性がうかがえます。 だから丸山真男は、戦争システムが崩壊したときにせいせいしたのでしょう。丸山の『超国家主義の論理と心理』における天皇―戦争指導部の切り捌き方は、ほとんど非情です。
 でも吉本隆明は違います。彼は、高名な新聞記者の父がいた丸山と違って、軍国少年でした。皇国の大義を信じ、二十歳までに死ぬ覚悟を決めていた。そしたらある日突然、全部がひっくり返ってしまった。きのうまで聖戦貫徹の旗を振っていた大人たちが 「民主主義に世の中になりました」と言い出した。
 何が起きたのかを解明せんとする意欲においては、吉本も丸山も違いはない。違うのは、戦争に負けたというのが吉本の場合は「ひとごと」じゃないということです。丸山真男大日本帝国には主観的には「貸し」しかない。だから取られた分を戦後の仕事でキッチリ、冷徹に回収すればよかった。
 でも吉本隆明は違います。自分の生身の「半身」を大日本帝国に取られていた。そういう生の実感がある。それは切り捨てることができない。切ったら失血死してしまうから。それを救いたい。草莽の軍国少年として過ごした少年期の中の「これだけは信じられる」というものを切り取って、救いだしたいということを切実に願った。
 吉本隆明が「半身」を大日本帝国に取られていたというのは、ドイツ第三帝国の若者が「ヒトラーに騙された」というのとは、だいぶ意味が違います。ヒトラーは最終的には自殺し、ハナ・アーレントが言うように、ナチスは「だれでもがこれからも冒しやすい史上最大の陳腐な悪」と定義できるわけですから。しかし吉本少年を人質に取った「大日本帝国の悪」は、そう簡単に定義できない。この国民が過去一千年以上も、その体制の中に漬かってきたのですから。
 日本人の読者にもよく意味が分からない「大日本帝国の戦争」の意味を、外国の読者がよく理解できるはずがありません。吉本隆明の著書に一冊も翻訳がないのは、この理由によります。

 蛇足ですが、昨日の朝日新聞に、丸山真男が「私は広島被爆の至近距離からの傍観者だった」と語っていたというコラムが載っていました。「被爆者・丸山真男 悔悟の肉声」というタイトルがつけられていました。
 丸山は広島原爆投下の当日に一兵卒として爆心地から5km以内の至近距離にいた人です。路上に並べられた死者やむごく傷ついた負傷者も数多く見ています。翌日には、日本に原子爆弾を投下したというトルーマンの演説も短波放送で傍受しており、それを司令部に報告に行っているほどの"目撃者”でした。それにもかかわらず戦後の著作の中で被爆体験にほとんど触れなかったことをと、後日ずっと悔いていたというのがこのコラムの趣旨でした。
 軍部に対する丸山の侮蔑は激しいものでしたが、戦後25年、1969年に録音された2時間にわたるこの「悔悟」は真情からのものでしょう。戦前の「貸し」を戦後の仕事でしっかり取り返した彼の冷徹さはしばらく措くとしてもです。
 しかし私はコラムを読み終えて少なからぬ違和感を覚えました。丸山に対してではありません。「被爆者・丸山真男 悔悟の肉声」という高みから見下ろすようなタイトルをつけた朝日の記者に対してです。戦争末期に広島・長崎に被爆を招いたあの戦争に対して、朝日新聞は戦争期間中、軍部協力以外にいったい何をしていたのか。「日本一の高級紙」の記者は、600万とも言われる死者にたいして、たとえば毎年8月15日、自社の行動に対する批判にみちたコラムを書く良心さえ持ちあわせていない、ぺらぺらの紙切れのようなインテリ集団です。