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鈴木健 『なめらかな社会とその敵』(勁草書房) 1/2

 世界はあまりにも複雑である。古代エジプトの世界も複雑だったろうが、古代ギリシアでも、中世ヨーロッパでも、そして、2000年ごろにはっきりし始めた現代のコンピュータネット社会でも、世界はとても複雑である。過去どのような哲学でも、世界の理解をやさしくするのに貢献したものはなかった。どのような哲学でも、世界を複雑にするパズルのピースを一つ増やすことにしか貢献しなかった。
 約70年前、シェーンハイマーによって、大脳も含めて人間の体のすべての分子はわずか4日間ほどですべて入れ替わる、生命とは「実体」ではなく、不断に入れ替わる高分子の「一時的な澱み」に過ぎないということが証明されても、われわれの世界理解は少しも明るくならなかった。
 複雑な世界を複雑なまま受け入れることが難しいのは人間に認知限界があるからだと著者は言う。人間が脳という有限のリソースを使っている以上、認知能力には限界がある限界がある認知能力を限界まで使って、最後に「世界は個々人の運命に関心がない」と嘆いても、それは酒場で諦念のため息をつくこととあまり変わりがない。
 著者の言うとおり、複雑なままでは世界を理解できず、理解できないと対応もできない。理解して対応して胸をなでおろすためには、世界を単純なものとしてみなすのは避けがたい。意識とはもともとそうした目的のための装置であり、わたしたちはそうやって認知のコストを下げているのである。
 それはともかく、コンピュータネット社会において言葉、文字、画像、映像などすべてのデータは、強制的抑制手段をとらない限り世界の果てまで「伝播」していくものであることが、誰にとってもはっきりしてきた。このことはコンピュータとそのネットワークが、より多くの世界事象を少ない認知コストで、複雑なまま扱うことができるようになったということではないのか・・・・・、そのことに多くの人が気付き始めた。 インターネットやコンピュータの登場は、世界の認知能力を桁違いに増大させる生命史的な機会を提供している。これらの情報技術を使って、この複雑な世界を複雑なままに生きることができるような(100年〜200年後の)社会を構想し、その具体的手法のいくつかを提案しているのが本書である。
 本書のタイトルは『なめらかな社会とその敵』である。なめらかな社会という、耳にするっと入る言葉は説明を要する。

 p36
 グローバル・コンピュータネット社会におけるソーシャルネットワークサービスは、知人友人関係の「網の目」が非常に短期間に世界中に広がるという特徴を持っている。こうして生まれた人間関係はソーシャルグラフと呼ばれるが、このソーシャルグラフは、ソーシャルネットワークサービス上のアプリや、外部のウェブサイトに埋め込まれたソーシャルコネクト機能を通じて、ネットワーク参加者に知人の行動や位置情報をフィードとして配信してくる。
 このソーシャルフィードによる情報配信の仕組みは、従来のようなマスメディアや検索エンジン的な(大量・一方通行の)ブロードキャスティングとは全く異なった仕組みである。とくにツイッターではリツイートという仕組みによって、ネットワーク参加者の行動や位置情報などが容易にネットワーク上を「なめらか」に伝播するようになった。
 (大量・一方通行の)既存のマスメディアでは情報が伝達される対象が国や言語、デバイスなどに応じた特定の視聴者に限定されている。(著者のメタファーでは、細胞膜のように、外界との接触を一部だけに制限している。)マスメディアにおいてはごく少数の発信者と多数の受け手とに分かれる非対称性があり、発信者に回れるのはごく一部の人たちである。(著者のメタファーでは、この少数者が、細胞の核のように他のあらゆるものを制御している。)
 対して、ソーシャルグラフ上のなめらかなメッセージングでは、誰もが情報発信でき誰もが受信者になることができる。どの情報が直接に知人だけにとどまり、どの情報が世界中に波及するかは、実際に発信されてみるまで分からない。つまりソーシャルネットワーク上のコミュニケーションとマスコミュニケーションは、なめらかにつながっているのである。
 完全にフラットで対等なコミュニケーションとマスコミュニケーションを二律背反にとらえる思考様式は、ここにきて古めかしく見える。なめらかなメッセージングは、この二つの概念を含み、さらにその中間レベルも含む。
 ・・・・・・・・・・・・、というのが著者のいう「なめらか」の意味である。