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夏目漱石 『三四郎』(新潮文庫)

 夏目漱石の作品で読んだものをあげろと言われれば、多くの人は『坊ちゃん』、『猫』、『草枕』、『三四郎』といった順番で答えるだろう。なぜだろう。『猫』はともかく、『坊ちゃん』と『三四郎』は主人公が未来ある青年なので、近代日本の青春小説の古典として読まれているのだろうか。作家の年譜のようなものには興味がないわたしも、恥ずかしながらだいぶ前、『三四郎』を初めて読んだとき、『三四郎』は漱石の初期作品だと思っていた。だから、そのときは寝転がりながら、お気楽な小説として読んだのだが、じつはよく分からないところが多かった。
 『三四郎』は『坊ちゃん』とは何の関係もない作品である。すいすい読めないページがいくらもある。その、気になる段落を注意しながら読むと、『三四郎』には、漱石の小説に出てくるほとんどの要素が網羅されている。
 三四郎が生まれて初めて深刻な恋心を抱いた美禰子はほとんど『虞美人草』の藤尾その人である。ただ美禰子は藤尾の母のような剣呑な女に育てられたのではないので、漱石自身に「藤尾はまっさきに殺さねばならぬ」と言わせたような人格にはならなかっただけである。
 「解説」を書いた柄谷行人によれば、漱石は美禰子のことを、「無意識の偽善者である」と言っているらしい。 「その巧言令色が、努めてするのではなく、ほとんど無意識に天性の発露のままで男を虜にするところ、もちろん善とか悪とかの道徳的観念もないでやっているかと思われる・・・・」ような女性である。まだ江戸時代であるかのような熊本の田舎から、「どこまで行っても街がなくならない(p21)」大東京にポッと出てきた三四郎が、大学構内の池の端で美禰子の視線に出会ったとたんに、一生消えないような焼き印を胸に押されてしまうのは仕方がない。
 「偉大なる暗闇」・広田先生も、漱石の作品にはおなじみの人物造形である。古典作品を毎日丁寧に読み、世間の栄達や名声をほぼ完全に締め出す広田先生の世界の色味はまことに暗い。先生の文明批評は的確であり鋭いが、先生はそれを著作にして世間に警告するということを全くしない。先生は外の世界を動かすということに興味がない。
 作品中では、おっちょこちょいの与次郎が、三四郎を巻き込んで広田先生を帝大教授にしようと運動し、大失敗に終わる。しかし先生は、高等学校教授という自分の地位を危うくしかねなかった与次郎の運動をひどくとがめだてすることもなく、「世間はおっちょこちょいの与次郎の仕業と見抜くよ」と、恬淡たる態度を変えない。漱石の世界観についてよくつかわれる「非人情」を広田先生ほど貫き通した人物は、この『三四郎』だけではなかろうか。『明暗』を別にすれば、『三四郎』は筋立てにも無理がなく、主要人物をいきなり死なせたりすることもなく、全作品のなかでも名作と言えるはずである。

 今回再読した後、いまさらのようだが、漱石の年譜を見て驚いた。『猫』を書いたのが一九○五年、日露戦争の年である。未完のまま遺作になった『明暗』が一九一六年。その間たったの十二年である。この十二年間に中・長編小説だけでも次の十五作品を書いた。『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』、『草枕』、『二百十日』、『野分』、『虞美人草』、『坑夫』、『三四郎』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』、『道草』、『明暗』 の十五作である。柄谷行人も言うように、量にも驚くが、つねに一定レベル以上を保った質の高さ、そして作品としての多様性にあらためて目を見開かされる。夏目漱石という人の才能の大きさと、それゆえの苦難を思わざるを得ない。
 以下は、「非人情家」・広田先生が、いかにも漱石らしい世界観を述べた箇所(p163−5)。三四郎が自分の美禰子への恋に苦しみ始めたころ、広田先生という人物を「研究」するため先生宅を訪問した折に、先生が世間話のついでに洩らしたものである。『三四郎』が『坊ちゃん』のような青春小説なら、こんなややこしい話は出ない。
 「(嫁には故郷の女を貰いなさいという話はともかく、)お母さんの言うことはなるべく聞いてあげるがいい。近頃の青年は、我々の時代と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしている頃には、することなすこと一つとして他(ほか)を離れたことはなかった。全てが君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ほか)本位であった。
 「それを一口に言うと、教育を受けるものが悉く偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、少しずつ自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、いまは露悪家ばかりの状態にある。
 「小川君もその露悪家の一人――だかどうだか、まあ(この時代に帝国大学に入ったのだから)たぶんそうだろう。(私を世間に押し上げようとした)与次郎のごときはその最たるものだ。あの美禰子、あれも一種の露悪家だ・・・・・・
 「昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日ではめいめいが同等の権利で露悪家になりたがる。もっともそれは悪いことでもなんでもない。くさいものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式を剥ぐとたいていは露悪になるのはわかりきったことだ。・・・・・・天醜爛漫である。はなはだ痛快である。
 「・・・・・ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同士がお互いに不便を感じてくる。その不便が高じて極端に達したとき、利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。
 「・・・・・進歩というものはそうしていくうちに生じる。英国を見給え。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから(すぐには)動かない。みるみる進歩はしない。イプセンも出なければ、ニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば固くなって化石しかかっている。」
 ・・・・・・・・『三四郎』が朝日新聞に連載されたのは一九○八年である。この年、小川三四郎は二十歳くらいだろう。一九三一年、対中戦争開始の年は四十三歳、敗戦の一九四五年には五十七歳くらいになっている。三四郎はあの三十年戦争の時代に、生涯のもっとも起伏に富む時期を過ごした人である。すなわち私たちの戦後日本の枠組みは、広田先生の薫陶を受け、里見美禰子に絶望的な恋心を抱いて人生の奥行きを知らされた小川三四郎たちが作ったものなのだ。